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 近年の生命科学技術の進展は目覚ましい。避妊・中絶、生殖補助医療、出生前診断、再生医学研究などは、いずれも女性の身体に深くかかわるテクノロジーである。これらのテクノロジーは、いうまでもなく、女性の健康を考える上で重要である。

 

 こうした生殖に関わるテクノロジーの導入の可否や普及は、国家権力や関連団体のコントロールの下に置かれてきた。例えば、日本の生殖をめぐるポリティクスにおいて、戦前は「産めよ増やせよ」イデオロギーのもとで堕胎禁止政策がとられ、避妊テクノロジーの普及は制限された。たが、戦後日本は一転して、人口過剰問題を手軽に解決すべく、避妊テクノロジーの普及に手をつけないまま、世界に先がけていち早く中絶を合法化した。このような政策優先・当事者不在のポリティクスのもとで、日本女性は、最終的な避妊手段として中絶の選択を余議なくされてきたといえる。

 

 一方、女性が主体的に意思決定を行う社会環境の整備や中絶後の心理的なケアは放置されつづけ、その負の遺産は、70年代以降、女性の罪悪感に付け込む水子供養ビジネスとなって結実することになる。また、世界に先駆けて中絶を解禁したものの、中絶技法改善の努力はなされず、中絶を受ける女性のクオリティ・オブ・ライフは向上しなかった。さらに、戦後の中絶解禁によって膨らんだ既得権益を有する人々が作り上げたポリティクスが、ほぼ100%確実な避妊手段としての低用量ピルの認可を先進国中、最も遅らせることとなり、“ネガティヴ・キャンペーン”の後遺症により日本のピルの普及率は現在でも低い水準にとどまっている。 このような社会環境のもと、性行動の低年齢化とともに、10代の中絶率は以前に比べて増加してきている。避妊・性感染症予防を目的としたコンドーム教育が性教育の現場で見受けられるようになったが、中絶予防に対する効果は不明である。より確実な避妊ピルを、女子中高生を中心に推奨しようという試みもないわけではないが、ホルモン剤に対する固定観念や性教育に関する論争があり、普及には成功していない。この「避妊より中絶優先」の戦後体制によって生じた既得権益の基本構造は現在も維持され、緊急避妊薬や中絶ピルなどの最新のテクノロジーの認可・普及にも影響を与えている。

 

 このように、政策中心・当事者不在のポリティクスのもとで日本女性の健康や選択肢の確保は常に二次的・三次的なものとして扱われてきた。だが、女性の側もまた、医療プロフェッションの専門知識と権能を前にして、受動的な立場に甘んじてきた、ともいえる。こうした状況に対し、「産む、産まないは女が決める」「優生保護法改悪反対」「ピル解禁」「性差医学・女性外来の設置」等々、女性運動による働きかけやプロテストが全くなかったわけではないが、結果的に女性に親和的であるとはいえない医療環境が覆されるには至っていない。

 

 昨今、新生殖医療と呼ばれる不妊をめぐるテクノロジーが、少子化で追い風になっている。だが、治療はあくまでも医師主導で行われ、十分なインフォームド・コンセントは実施されておらず、治療を受ける女性が主体的に意思決定できる環境は整備されていない。不妊治療は実験的な要素を持ち、治療は一部の男性不妊を除いて女性の身体に集中する傾向がある。妊娠へのプレッシャーから心理的に追い詰められる女性も少なくなく、さらには、ホルモン剤投与などによる長期的な健康影響もよくわかっていない。近年、不妊専門カウンセラーの設置などの導入が図られているが、少子化対策として位置づけられていることや、治療施設内に設けられることが多いなど、中立的な立場を担保できているか疑わしいところもある。また、不妊治療の成功率の改善を図るべく、卵子提供や代理出産など、第三者の身体を巻き込んだ治療がますます進められており、生殖ツーリズムと商品化により経済的に弱い立場にある女性の搾取が、世界的に進んでいる。

 

 こうした生殖医療・新生殖医療の現場は、先端医療技術開発と国際特許競争のポリティクスともつながっている。すなわち、卵子や胚(不妊治療の「余剰胚」とも呼ばれる)、中絶胎児等を研究材料とする再生医学研究が、新たな搾取の構造を生みだしている。後にねつ造であることが発覚した韓国のES細胞研究がその典型例であるように、再生医学研究において国家や産業の利益が優先され、強引な同意取得が行われ、多数の卵子が実験に使用されたことは記憶に新しい。iPS細胞の成功により、将来的には生身の女性から卵子を採取する必要性はなくなるかもしれない。だが、政策中心・当事者不在の科学政策・医療環境が女性に親和的なものに変わらない限り、テクノロジーの進展によるメリットを女性が真の意味で享受することは今後もないだろう。

 

 生殖テクノロジーの進展が女性に新しい選択肢を提供し、それが、女性に利益をもたらしてきた側面があることは確かである。テクノロジーと女性の関係は一様ではないが、テクノロジーの利用環境や医療は、女性にとって必ずしも親和的とはいえない現実が存在する。まずは、生殖テクノロジーをめぐるボディ・ポリティクスや日本のヘルスケア環境の実態を明らかにする必要がある。これにより、テクノロジーを利用することによって現実にメリットを享受しうる当事者の声に正当性が付与される。そして、既存のポリティクスの布置に女性にとってより有利な変化をもたらすことで、そうした変化を、新しいヘルスケアの開発に繋げることや、テクノロジーの利用環境や女性医療に関する政策決定過程にも反映させることが可能になる。

 

 本研究には、以下の三つの要素が含まれる。

 

  • 生殖テクノロジーをめぐるボディ・ポリティクスの包括的解明
  • 日本や海外のヘルスケア環境の実態調査とそれを踏まえた新しいケアの提案
  • テクノロジーの利用環境に関する政策決定に、女性にとって有利な変化をもたらすこと