HOME > イベント > 報告(2010年3月13日)

島薗進 (東京大学大学院人文社会系研究科教授・グローバルCOE「死生学の展開と組織化」拠点リーダー)

「生殖補助医療は女性の幸福を増進するのか?」



島薗: みなさんこんにちは。安藤泰至先生とは長い付き合いで、経歴も少し似ていて、2人とも宗教学をやっています。安藤先生は、今日はとても大きなお話をなさいます。声も大きい。私のほうが体は小さいので、控えめに、具体的なお話をしたいと思います。

すぐそこの美術館は、もともとは金沢大学の附属中学があり、私はそこに通学していました。そのころ、ここには金沢大学の理学部があり、年に1度、今で言う「人体の不思議展」みたいなものをやっていました。中学生のころ友だちとここに見に来ました。今思うとその標本展示そのものが、近代医学の問題点とつながっていると思います。

私は小立野に住んでいまして、父親のいた精神科の研究室に時々行くと、脳みその標本がありましたが、人体を物として見るような医学に、次第に疑いを持つようになりました。医学は、本当は人間を相手にするはずなのに、次第に人間が相手にできないような医学や医療になっているのではないか。自分が方向転換をしたとき、どこまでそれを意識していたか分からないが、そんなことがあって宗教学をやることになり、今は死生学に取り組んでいます。文系的な考え方を通して、医療現場で起こっていることを考えていく。医療現場でも文系的な知識をぜひ必要としているのかと思われますが、医療系の方たちと接触する機会が増えている状況です。

今日は代理出産、代理懐胎の話をします。私はこの方面で数年間勉強していますが、以前、ヒトの胚の利用のことで政府の委員会に入っていました。受精卵がだんだん胎児になる段階でそれを利用するという問題が、今は世界中で起こっている。それが認められるかどうかというとき、既に生殖補助医療では受精卵の利用、受精卵を作ることが盛んに行われている。そこで出てきている問題がいかに重要かを、その問題に関心を持っている方からいろいろ教えていただきました。日本産婦人科学会(日産婦)がいろいろ努力をされているが、やはりかなりいいかげんだという批判を聞き、そのとおりだと思ったことがあります。

今、代理出産は急速に進んでおり、向井亜紀さんの件もあり、あるいは諏訪マタニティクリニックの根津八紘医師が積極的にやっている。日本も法的な整備が必要ということで、日本学術会議で検討した報告書(参考資料)が、2006年4月にできました。この委員会でも私は参考人として発言をしました。資料にはごく一部の、倫理問題についての部分を抜き出していますが、ホームページ(日本学術会議・生殖補助医療の在り方検討委員会)からも取り出すことができます。今の日本で綿密に検討された代表的な文書で検討してみたいと思っています。これはかなりの法律問題であり、学術会議の中で今も法学者中心の委員会があり、私も参加して検討しているところです。

皆さんは代理出産について、どのくらいお話を聞いているでしょうか。まずあらましを解説して、その後でこの文書の検討に入ります。 いつごろから代理出産が行われていたかというと、ある意味では相当古くさかのぼってしまいます。奥さんが子宮などにトラブルがあって子どもができない場合に、別の奥さんに夫の精子を入れて子どもを作ることは、いろいろなかたちで行われていたと思います。

現在のように医学が介入したのは、例えば根津さんの本では、1967年ごろに医学会への報告があると書かれています。もう一つ非常に参考になるのは、大野和基さんの、アメリカに取材に行かれて作ったです。1976年には、「代理母募集」のような広告記事が、アメリカの新聞に出ていたという記録がある。ですから、最初は医療関係者が介入せず、当事者たちが勝手にやっていたわけです。この広告記事はお金がかかわってきて、オークションのようになっている。何ドル出すかを当事者たちに言わせて、応募があった中から選んだという記事が出ています。その中に代理母「サロゲート・マザー(surrogate mother)」がある。

1978年に「試験管ベビー」、つまり体外受精が行われるようになりました。試験管の中、あるいはペトリ皿の中で受精をさせて、外にある受精卵を子宮に戻すことができるようになった。この段階から「ホストマザー(host mother)」ができるようになった。これは、妻の子宮は機能しないが卵巣は機能している場合に、卵子を外に出して精子と合体させて、そこでできた夫婦の遺伝子をもった受精卵を別の女性に妊娠してもらうやり方、これがホストマザー、「借り腹」と言ったりします。

それに対して「サロゲート・マザー」というのは、夫の精子を別の女性に注入して、妊娠させて子どもができるわけです。代理出産というのは、まずサロゲート・マザーが先行して、次第にホストマザーになってきた。ホストマザーが普通に行われるようになると、医学の介入もそれだけ多くなってきます。つまり体外受精には医学者が介入しなくてはならない。それと同時に、夫婦の遺伝子を持った子どもなので、依頼者(親)としては非常に望ましい。そのような形態が行われるようになりました。

アメリカの場合は、正当性が議論される前にどんどん行われていたことで、仲介業者が出ている。そこに名前が出ているノエル・キーンは悪名高く、どのようなトラブルが起こるかを考えずにどんどんやっていた人です。1997年に亡くなっていますが、ブローカーとして600人くらいの斡旋をしたということです。

1986年に生まれた子どもの「ベビーM事件」が有名です。代理出産の場合、依頼者は、経済的に豊かで社会的地位や学歴が高い人。おなかを貸す女性は、経済的に苦しく、大学なども出ていない場合が多い。この場合も、依頼者は学者や医師であり、労働者の女性が提供した。ところがその女性は、子どもが生まれた段階でどうしても手放したくなかった。依頼者のところへ押しかけて、何とか自分に育てさせてほしいと、一度は連れ帰った。裁判になり、依頼者が頼んだ側、貸した方が懐胎者とします。裁判では「懐胎者の子ども」と決まったが、誰が育てるかとなると、やはり経済的に豊かな人たちが良いとなり、依頼者へ戻したという事件です。

どのようなトラブルが起こり得るか。懐胎者は、非常に深刻な心理的・身体的な苦しみを背負う可能性があることが分かった。子どもがおなかの中にいるということは、男が想像するのはなかなか難しいですが、10カ月間おなかの中で育てた子を産み、それを手放すのは大変苦しいものがある。特にこの場合は、自分の遺伝子も入っている、自分の卵子で産まれた子でもあります。このような事件が起こった。

このころのアメリカは、まだ反対の世論が強かった。今では、認める州と認めない州に別れていますが、全体としては認める方向に進んでいると言えるかと思います。ニューヨーク州は厳しく、許さない。カリフォルニアやイリノイは進んでいる。進んでいる州の考え方は、子どもが産めないお母さん、子宮のトラブルや子宮の病気で子どもが産めなくなってしまった人が、どうしても子どもが欲しいというのを医学的に助けることができるのに、どうして認めないのかという理由です。おなかを提供して報酬を得ることで、人を助けたい人はいくらでもいる場合に、なぜそれを妨げる必要があるのかということだと思います。

「ベビーM事件」以前・以後にもいろいろなトラブルがあります。障害のある子が産まれてくると、頼んだ人は引取りを拒否する。その後だんだんと契約を変えていき、トラブルが起きないように法整備というか、どのような意味の進化か分かりませんが、アメリカでは進化していると思います。

代理母が死んでしまった例もある。お姉さんが子宮にトラブルがあるので、お姉さんのために妹が妊娠してあげた。しかし、子どもに会いたいのをお姉さんがどうしても許さないので、それから姉妹の関係が難しくなってしまった例もある。このような例がいろいろあります。今は、アメリカの中にも反対の同盟もある状況になっています。

だんだん分かってきていることは、子ども側はどうなるのかということです。善意でやってあげる人は、子どもができない夫婦の立場で、その人のために何とかしてあげたいわけです。しかしその場合に、貸し腹で懐胎した女性の子どもはどうなるのか。子どもはまだ存在しない、しかしやがて存在する第一の当事者かも知れない。しかし、その子どもはまだ声を発することができないから、子どもの意思は反映しようがなく、想像するしかないわけですが、想像するには限界があります。子ども側の問題がいろいろありますが、後ほど、だんだん触れていきたいと思います。

アメリカは、この問題の規制は少なく、ヨーロッパのほうが規制は多い。今のところ、大体はアメリカのほうへ向かっているように見えます。特にブッシュ大統領の時代にはグローバル化が進み、アメリカをモデルにした経済システムが世界に広がっている。ヨーロッパは国家による社会主義的な、共同の利益を守るという意識が強いから、イギリスでは医療費は皆無料です。アメリカの場合、世界中から貧しい人が来て、経済的な格差が当然ある中で、豊かな人の望むことを達成するような自由主義をとっている。

現在のように世界が一つの社会になってくると、貧富の甚だしい違いのあるものが同じ環境で暮らす。世界中がそうなってきているし、日本もどんどんそうなっている。アメリカは、この間のハリケーンでたくさんの人が洪水で死んだ。そのほとんどが棄民で、普段から社会福祉は受けていないし、災害があれば死んでも当然と思われるような人たちのいる国です。

今はオバマ大統領が頑張っていて、どうなるか分かりませんが、保険を受けられない人はたくさんいます。私の友達で、アメリカで映画作りの修行をしている人も、しばらくは保険に入れなかった。病気になったらどうするのか聞いたら、「寝ている」と言っていました。そのような社会です。日本もだんだんそうなってきて、病気になっても病院に行けない人は増えている。しかし、現在のグローバル経済というものを考えたら、やむを得ないことだと思います。アメリカは、そのようなシステムを前提にしてやっているということです。

そうしますと、貧しい人は、懐胎することで経済的な利益が得られて生活が助かる。お金があるけど忙しい人、あるいは体の弱い人は、人に妊娠してもらえばたくさんの利益が得られる。どこが悪いのかという話になり、今どんどん進んでいるわけです。

インドやフィリピンでは臓器売買が行われていましたが、禁止の方向へ一時向かった。今は臓器売買のツアーを禁止するようになった。日本人が、アメリカや他国に腎臓を買いに行く。小さな子どもは日本では心臓がもらえないので、アメリカで心臓をもらう。このようなことはやめようとWHOなども提言して、そちらへ向かっていた。だから、今の日本は脳死臓器移植の許容度を拡充したわけです。臓器売買も、実は禁止する理由がないのではないかという議論が、今はじわじわと強まっております。

日本では生体肝移植があり、腎臓にしろ、肝臓の一部にしろ、生きた人からもらったほうがいい。親戚や親子からもらえるのに、どうしてほかの人からはいけないのかという議論になってくる。また、それだけのことをやってくれるのに、なぜ費用を払わないのかということになる。そうすると、臓器売買を禁止する根拠はなくなってしまうわけです。フィリピンなどは、今でもかなり行われていると思われます。

インドは、2000年代に有償代理出産を合法化し、一種の産業として考える人もいる。インドの貧しい女性が、ヨーロッパやアメリカ、日本など、どうしても子どもが持てない夫婦の受精卵を子宮に入れて子どもを産む。その代わりに、お金を払う。大体100万円が先進国の基準ですが、インドへ行けば30~40万円でできる。それでインドでは何年分もの収入があるそうです。どうしてそのような労働をしてはいけないのかという議論。国を超えればできることを、なぜ国内ではできないのかということにもなってくるわけで、タイ、ネパール、ペルーなどでも容認の方向だと、大野さんの本などにも書いてあります。

代理懐胎については、アメリカはどんどん進んでいるが、ヨーロッパの国はどちらかというと厳しかった。東京財団の研究グループが、フランスが最近変わってきているという報告書を今年の2月に出しています。フランスは1994年に生命倫理法が作られて、かなり厳しいものだったが、だんだん緩くなる傾向がある。2004年に改正があり、また2回目の改正があります。

1994年の法律では代理懐胎は禁止されていました。しかし、ごく最近、アメリカで産まれた子どもを、フランスで、依頼者の子どもだと認める判決が出た。普通は産んだ人の子どもになる。産んだ人の子どもを、養子縁組して依頼者に移さなければいけないという、なかなか難しい条件がある。この場合は、アメリカで認められた子どもとしての資格を、そのままフランスに持ってくることになった。フランスのいろいろなグループが報告を出しているが、どうもこのレポートを見ている限り、許容とはいかないのではないかと私は読んでいますが、事情が変わってきているということです。

日本も、脳死臓器移植を国内だけで考えていたときは、認めたくないという人が多かったが、外国へ行って臓器移植をする人がいるなら、国内でも認めなければならないのではないかと変わってきました。グローバルな社会の中で見ていくと、考え方を変えなければならないようなことがヨーロッパにも起こってきている。グローバル経済的な環境の下で考え直すと、今までフランス国内だけで考えていた基準が当てはまらないことが起こっている様子です。この中には「代理懐胎は一回しかできない」とか、「母親(おばあさん)はできない」という、いろいろな条件があります。

面白いのは、今の日本では、母親(おばあさん)の代理懐胎が進んでいるが、フランスの案では禁止となっています。まったくの他人か、近親者がいいのか。近親者の場合には、姉妹や義理の姉妹か、母親がいいのかということがある。それぞれの理由を考えると、それぞれに難しい問題があることが分かってくる。

母親ではいけない理由は、やはり母親は50歳代で、60歳以上の母親は難しいようです。でも、55歳でホルモン注射をして、子宮を機能させて子どもを産む。その後も更年期障害などが起こり、またホルモン注射をしてごまかす。子どものほうに何か影響はないのか。子どもが20歳、30歳にならないと分からないかもしれない。そのようなことが、フランスの判断では入っているのかと思われます。

日本はあまり例がなく、少なくとも報告されていなかった。2000年代に入り、まずは根津八紘さん。彼は、とにかく何でもオープンにすべきだという考えの人です。困った人がいるならどうして助けないのか、医者はどうしてもすべきことだという強い考えを持っている。この人の表現力が影響力を持って、代理出産に賛成する人が世論調査で50%を超えます。韓国は代理出産が非常に盛んで、ある程度行われているが、世論調査をするとそれほど賛成は出ない。

どうしてこうなるのかというと、根津さんの発言や、あるいは向井亜紀さんも影響している。「マスコミはあまり深く考えない」と、私たちは言ってしまう。とにかくそこで困っている人が助かると、「よかった」となる。あの人のために何かしなければならない、幸せな姿を見れば、「よかった」と思うのは自然です。その人情を利用してというか、世論操作と言ったらおかしいかもしれないが、日本では賛成者が多くなっています。

しかし、倫理的な問題についての審議、あるいは医学的な検討をすると、学者や専門家は否定する状況が続いています。最近話題になったのは、インドに行って、ネパール人から卵子をもらい、インド人女性が代理出産をしたが、産まれる前に離婚した人たちがいた。結局子どもは引き取ったが、それはインドの法律では非常に無理なことをして、日本で引き取るという例がありました。

日本では一応「分娩者=母ルール」と言っているが、法律家が四苦八苦しているところです。つまり、なぜ遺伝子の母ではなくて、産んだ人が母でなければいけないのか。このルールを変えていいという人も、当然いるわけです。

根津医師は2001年に、最初は姉妹に頼んで成功している。しかし彼は、ある時期(2006年)から母親だけに頼んだ。今までに11組13人(双子を含む)成功したかなりの部分は50代の母親です。自分の娘を26~27歳で産んで、中には自分の子どもを40代までかけて4人産んで、そしてまた50代で孫を産んだ母親もいるわけです。

根津医師が母親に産んでもらった経験を、ジャーナリストと組んで本にしています。一番新しい本ですが、これを見ると、やはり妹や姉に頼んだ場合、トラブルがあったのではないかと思われます。このへんが問題です。つまり、「成功した、良かった」という話が本になっている。しかし、うまくいかなかった部分はこちらが想像するしかないわけで、どのようなトラブルがあったのか、それもオープンにすべきだと思います。

恐らく夫婦仲が悪くなった。妹らは若いから、当然自分の子どもや夫に対する気持ちとは別に、人の子どもへ気持ちが行く。当然性生活ができなくなる。そのようなことが示唆してあります。それで母親にした。しかし母親の場合、50代半ばを過ぎた人が子どもを産むのは何か変だと、医学的に調べなくてはいけないが、調べるといっても例がないし、大体オープンにしたくないわけです。やってみてうまくいかなかったら、後で謝るという発想になるわけです。

いろいろな難しい問題が出てきたことも問題です。法律がなかなかできない、政府がしっかり審議をしない中には、代理出産を含めた生殖補助医療をどんどん推進すべきだというかなり強力な考えを持つ人が国会議員の中にいる。そうすると、それを規制する法案は提出できない。つまり、あまり考えてない人たちの中に、非常に強く進めるべきだという考えの人がごく少数、数人でもいると、なかなか法律が通らないということになります。2003年4月に厚労省で出した報告も法律にならなかったし、2008年に学術会議が出したものも、法律になりそうもない状況です。

一応、2008年の報告書について申します。目次を見ると分かりますが、3で検討しているわけです。2が倫理的な問題の検討になります。医学的、倫理的、社会的、法的と言っています。これは医学の専門家、法律の専門家、倫理の専門家、それぞれが自分たちの主張をしているものを組み合わせた形でいいのかどうかという問題が一つあります。この倫理的、社会的側面からという記述は、私にはたくさん問題があるというか、十分に議論されていない気がします。

加藤尚武先生という方が中心になって、哲学的な面を主張しています。加藤先生は代理母をしてもいいという考えの方で、その考えは非常に強く反映しているわけです。医学者や法律学者のほうが、どちらかというと問題があると言っています。倫理の問題という、本来は一番根本的な問題を指摘すべきところが弱くなっていることは否めない。

加藤先生の考えでは、「自己決定」が生命倫理の原則である。この場合、自己とは依頼者です。依頼者が最初の当事者という考えがあるから、自己決定から始まるわけです。懐胎する人も当事者、子どもも当事者です。当然、自己決定から始めていくと、自己決定の限界も述べているが、子どもの立場から考える、あるいは懐胎者の立場から考える視点が弱いと思います。

とても面白いことです。今、売買の対象になると、日本やヨーロッパは、業者に任せるやり方はしない方針で許容する。イギリスが既に先行していて、ほかの国もイギリス路線で行こうとしている。アメリカは売買是認です。インドや発展途上国もアメリカに従おうとしている。日本やヨーロッパは、第三者に頼まないということです。

第三者で、ボランティアで代理出産してくれる人が出てくるのか。そのことを期待するかのような文書もあります。ボランティアと言っても、何も費用を差し上げないのか。もちろん医療的な援助はして、報酬の代わりに金銭的補償だという言う人もいます。これもよく分からない。おなかの中に子どもがいるお母さんは、普通の生活以上のエネルギーを使っていますから、その分ぐらいは出してもいいのではないかという話になってくると、それは報酬とどこが違うのかということになります。

根津医師の場合は、初めから親戚にしか頼みません。第三者にお金をやり取りするようなやり方はしません。だから最近は母親に頼むことになってきたわけです。逆に、日本の臓器移植は、親戚の人から生体間で移植をやっていますが、これにはこれで問題があります。例えば、断りにくくなる。娘は子どもが産めないが、母親は産める。それはもう認められている。根津先生がやっているとなると、母親は断りにくい。今は、肝臓がんになったら、周りの人は提供しなければならない可能性が高い。断るのは非常に難しいです。

妹に産んでもらった時に、妹は、子どもに深い気持ちが当然残ります。その後、どのように付き合っていくのか。うまくいく場合も当然あります。しかし、トラブルが生じる場合も当然あります。妹の子どものほうも、妹弟が取られたような気持ちを持つこともあると思われます。 私も、娘が妊娠して初めて分かった気がするのですが、流産しそうになる。要するに、妊娠というのは命がけです。命がけと言う場合、親も命をかけているし、子どもの命もかかっているので、その場合にどのような判断をするかということです。そこにお金をもらっていれば、お金のために何とかするということもかかわってくる。もし、子どもが産まれなかったら報酬が減る、場合によっては全額取られることになる。そのような場面に追いやられるということもある。

子どもがおなかにいる間は、やはり親は、その子のためにはあらゆることをしたいと思っています。おなかの子どもに対して、邪険にする親もいると思います。しかし、産んだらすぐにまったくの他人という場合、子どもに対してきつい反応が起きないのか。一番心配なのは、障害などを持っている場合です。依頼者から、そのような子を頼んだつもりはないと言われて産まない。このへんは、契約によってトラブルが生じないようにしています。しかし、それでよいのか。

日本などの考え方では、産んだ人が母ですから、産まれた後で、やはり私の子としたいと言えば、何が何でも依頼者に戻さなければならないということではない。もし許容するとしてもそのような法律になるはずです。しかし、アメリカなどでは、もう絶対に渡さなければならないことになっている。インドで産まれる子は、絶対そうなっている。そのような場合に、もう一生面倒見ない子をおなかの中で育てていることは、非常に悲劇的なものが入っているということが、十分に考えられるべきだと思います。

参考資料の検討は省略しているのですが、その問題についていろいろ述べてあることは、やはりまだまだ不十分だと私は思います。特に、おなかの中にいる子どもと母親の関係というのは、経験した人でなければ分からないこともあるし、障害を持った子どものことなどは非常に複雑です。そのことについて十分な検討が行われていくかどうか、大変不安に思い、まだまだ議論しなければならない段階にある。

この報告書の大事なポイントは、一応禁止にする。だけど、試行すると言っている。なぜ試行していいかという理由が分からない。これは、まだ医学的にデータがないから、医学的なデータが得られるための臨床試験だというのは、医学の中ではよくある考え方です。しかし、この臨床データはどのように得られるのか。試しにやったとしても、ごくわずかな例しか出ない。その結果が分かると言っても、20年、30年待つということではない。人間関係的なトラブルについて、わずかな例からいろいろ判断することはとてもできない。だから、試行するという考え方は、非常に非現実的だと思います。

試行する場合の条件は、子宮がもともと無いか、完全に使えない人だけに限定する。もし、自分の子宮で妊娠した場合には非常に危険があるから、誰かに頼みたいという人はだめ。子宮がない人、あるいは子宮がんで子宮を取った人ならいい。しかし、これもなぜそうなのか。このようなことは、「滑り坂論」と言い、全体に否定ではなく、まずここまでは認めておこうとすると、ここまで認めたのに、次にここの人を認めない理由が示せなくなってしまい、どんどん広がっていく。実は、そのことを予測している。結局は全部解禁するのではないかという展望のもとに、まずはそこだけやってみて、世論の懐柔を図っていると思えるわけです。

最後のまとめで、私の考えを述べたいと思います。打出先生はだいぶ違いますが、代理懐胎を認める、積極的にやろうという考え方の産婦人科の医師、根津先生のような方は、私は立派な医師だと思います。たまたま根津先生がやって、そのうちどんどん深入りしていったということだと思います。しかしその場合、自分のやってきたことを正当化するために議論を組み立てていこうとすると、どのようなマイナスが起こるかは軽んじている。困った人がいるのを助けたいという、それ以外の理由はないです。

医療が陥りやすいことは、医療は善意によって成り立っていると考える人が、その善意をできるだけ広げていきたいと考えることです。認められない理由も大体はっきりしています。細かく見ていく必要があることを言いました。例えば、報告書の問題点で、売買はいけない。ボランティアで試行するということ。それなら、妹や母親の近親でやった場合、どのような問題が生じるかについてはほとんど書いていない。そのことについて、もっと丁寧に見ていかないといけない。大体このような理由になります。

依頼する女性、あるいは夫婦にとっては幸せへの道です。しかし、懐胎する人は被害が及ぶ可能性もあり、いろいろな危険をかけてやっているわけです。リスクがあまりにも大きいことがある。そのリスクは、よほど丁寧に言わなければ、初めから予想できない。見返りがある場合、そちらに気が向いてしまう場合があります。

われわれが判断しにくいことは、子どもの意思です。産まれてくる子どもが、どのような不利益を被るか。両方から見捨てられる子どもがあり得る。依頼者と懐胎者の間の葛藤に苦しめられる子どもがあり得る。AIDの人たちから精子や卵子をもらってきてできた子どもは、自分がそうだということが分からない。だけどそれを知る権利はある。一生分からずに死んでしまうこともあり得る。それでいいのかという問題。少なくとも養子縁組をすればしっかり戸籍に残りますから、この場合は分かります。それでもやはり、例えばお金のやり取りがあった場合、子どもはどう感じるか、分からないところがあります。

特定の人のためには幸せになっても、広く見るといろいろな害が及ぶことが考えられる。「滑り坂論」もそうですが、このようなことが広まっていったらどのようなことが起こるのか。貧しい女性なり、あるいは子宮のない女性の周りにいる女性は、潜在的に人の妊娠を助ける可能性がある人になります。一部の女性が幸福を得ることが、別の女性たちの危険につながることがあり得ます。

医療も非常に難しくなります。これも私の強調点ですが、医療は患者(消費者)の欲求に従うようになってきている。患者の望んだことはやらなくてはならなくなってきた。典型的な例で、「ヒポクラテスの誓い」があります。医師は人の命を司ることができます。その中には、人の命を脅かすこともできるわけです。だから、普通の倫理より一段厳しい倫理がつきまとう。これが伝統的な医療の考えです。医者は人助けだということの中には、それだけ厳格で、人の命を脅かす可能性にも配慮していることがあると思います。

この場合、この人を助けたいという代わりに、懐胎者や子どもに危害が及ぶことを、医者はやらざるを得なくなることもあると思います。正当な医療として代理出産が認められれば、当然そのようなことも起こってくるわけです。

根津先生は大変自信家であるし、自分のやってきたことを良いことだと確信を持っていると思いますが、失敗例が本当になかったのかどうか、これは分からないわけです。このような問題があります。

例えばインドの女性で、喜んで代理出産をしたい人がいるとすれば、その考えが間違っているとは、その人の立場に立ってみればとても言えないと思います。フィリピンで腎臓を売る人が、それで家族を必死に助けている、間違っているとはとても言えない。人の子どもを代理出産することで、自分の子どもたちを何とか助けられる。その人の気持ちになればとても否定できない。これは当事者の善悪として考えるのではなくて、システムとして考えないと、正当な医療に入るかどうかということで考えないといけないと思っています。

「人体の商品化や道具化」、これは安藤さんが話されると思います。全体として進んで、そのうちに入りますが、そうは言ってもよく分からない。女性の体を道具にしていると言っても、「私は別にどうされてもいい、それで働ける」という人もいるかもしれない。少しうまい言い方で「暴力的支配関係の許容」と書きましたが、人によっては奴隷制に近いという人もいます。お金のために、普通の人がリスクにかけないようなことを、あえてリスクにかけているということです。

暴力的に支配するために人の自由を奪うが、そこにお金を介入させると、あたかも自発的にやっているように見える。しかし実際は、相当に暴力的なことではないか。経済的に豊かならけっしてやらないことをやらせているわけで、そう考えてみたらどうかと思っています。似ているのは傭兵制で、自国を守るため、自国の若者を軍隊に入れるのは嫌なので、他国から雇い、戦争に行ってもらう。アメリカの中では、やはり貧しい人が軍隊に入り、イラクで死ぬということが起こっています。このようなことが似ているのではないかと思います。

最後に、生命倫理には4つの原則があると言われていますが、これはそれほど間違ってはいないと思います。「自立」は自己決定、自分で決めること。これがあまりに強調されすぎているところに問題があります。「正義」は主に平等ということ。ある人が特別に暴力的な抑圧を受けていることをなくそうではないか。これは今回にも該当しますが、私はこの問題は、「無危害」と「仁恵」との関係で考えたらどうかと思っています。

善意を言いました。ここで宗教がらみになります。隣人を助けようとキリスト教は言います。仏教は「慈悲」と言います。皆が慈悲や愛の精神になることは良いことです。医療でもそこが説かれるのですが、人の善意に期待するのは、実はその裏を考えておかないといけない。実はその中に強制が入ることがしばしばある。その裏面は「無危害」と考えてはどうか、そちらに敏感になる。

善意を施していても、実はそのことで人が傷つく。善意のつもりが、実は人の抑圧につながっていることが、人の世界にはとても多い。仏教で言うと、仏教は慈悲を説くと同時に「不殺生」ということが根本にあります。日本の仏教は戒律をあまり強調しないので、こちらの側面が忘れられがちで、「人を傷つけてはならない」ということ、無危害とはまさにそうです。

根津医師の場合は、善意の倫理を言っています。不殺生というとお肉を食べてはいけないとか、虫も殺してはいけない、そこまでいけば大したものです。女性の立場から、あるいはわれわれのような倫理について考えた立場から言うと、一番大事なのは、やはり人を殺さない、傷つけない。共に生きている人間同士が、いかにそのような暴力を避けていけるか、現代の中でどう生かしていけるかという問題だと思っています。

これで話を終わらせていただきます。(拍手)