HOME > イベント > 研究会(2010年3月13日)

    質疑応答

     


    司会: 残りの6時まで、40分ほど時間がありますので、精一杯時間を利用して、ご質問、ご意見などを伺えればと思います。島薗先生も安藤先生も答えてくださいますので、よろしくお願いします。

    一般の方々も、また医療に関係する方々も来ていると思います。素人的な立場からと言いますか、常識での立場からのご感想もありますし、専門的な感想もありましょう。どうぞ、司会者のほうでどういうふうに誘導するということはできませんものですから、自由なディスカッションといいますか、やり取りでやっていければと思います。どうぞ。

    質問者1: 安藤先生に初めに聞きたいと思います。お二人の先生、非常に興味深いと思ったんですけど、今日面白いなと思ったのが、島薗先生でも生殖補助医療という言葉をお使いになっていて、安藤先生のほうは生命操作とおっしゃっているんですね。だけどお二人が対象にしている話というのは、かなり重なっていることなんですね。この言葉の違いによって、感情移入が非常に違う。先ほど脳死のお話がありましたが、脳死という言葉を使ったとたんに、もう取り込まれていくというのがあるんですけれども、そういったところに違いというものが、やっぱりはっきりと明確に出てくると思うんです。島薗先生のほうも、基本的には批判的なお立場だと思うんですけれども、こういった言葉の利用について非常に気になったんですが。 安藤先生ご自身は、生命操作という言葉をどう定義されるかというのが一つ、まずお伺いしたいと思います。このように伝えることが多いということなんですが、私の感覚から言いますと、どちらかというとこうした問題文に対して批判的に言うときに、生命操作という言葉を用いるだろうというのが私の感覚なんです。それを使っていらっしゃる安藤先生は、どう定義されるかなと気になりました。

    もう一つは、これはお二人にかかわることなんですけれども、医療も宗教も、いわゆる男性中心的な制度だと私は見ている。私の立場は、どちらかというとペインフリーの立場から見ていましたので、その立場から言いますと、宗教も医療も男性中心的な制度だと見えるんですね。そうすると、逆に言うと、女性を中心にした場合にどのように見えるかということが、やはりもっともっとこういった議論の中で言われなければならないなということを、すごく強く感じました。

    例えば、島薗先生のところだけ出ているんだと思うんですが、懐胎者、懐胎ということに対して、やはり女性自身はどのような経験をしているのかということを、女性の立場から説明するというのが今まで非常に少なかったと思っているんです。そういったものについて目を向けていただきたいなと感じました。

    最後にもう一つ。今回のイベントにつなげて考えますと、女性に親和的なという言葉で、今回の研究会になっていますので、そちらの立場というか、そういったものに対してもどう思っているか言っていただきたいなということと、先生がどういうお考えなのかなということを、まず安藤先生に考え方を聞いてみたいです。よろしくお願いします。

    安藤: 一つ一つにお答えしていくと、時間がかかりすぎるので、いくつかの事柄を絡めて、一回で答えたほうがいいんじゃないかなと思います。

    まず、私は「生殖補助医療」という言葉も使っています。また、「生命操作」という語は積極的には定義していないんですけど、一応、人間の身体というものに対して、生物医学的な知識を利用して、その人間の生物学的な生命だけではなくて、生活とか人生とかをも操作しようとするような技術、そういうものを私は「生命操作」と考えています。というのは、これを英語で表現しようとするとちょっと難しい、という話をしたことと関係があります。実は、このことを私はむかし論文に書いたことがあるんですけど、英語のような西洋語だと、生きる(live)という動詞の名詞形は「life」一つしかないですね。それを日本語に訳すと、「生命」、「生活」、「人生」、「いのち」、とそれぞれの文脈によっていろんな訳があり得て、それぞれちょっと意味合いが変わってきます。

    生命操作技術というのは、基本的には生物学とか生物医学的な知識でもって、「生命」を操作しているわけです。たとえば臓器だとか、精子と卵子だとか、あるいは遺伝子だとか、そういう身体のある部分、要素に対する操作です。ただ、そこに人がそういう技術を使うことによって、実は、特に生殖の場合だったら、女性の身体だけじゃなくて、その人の生活や人生が丸ごとそこに巻き込まれちゃうわけです。その操作技術によって、身体的な害だけじゃなくて、その人の生活設計自体を巻き込んでしまって、そこに害を与えてしまうことがある。そういう部分を含めて、やはり私はかなり批判的な意味で「生命操作」という言葉を使っています。もちろん、生命操作だからやっちゃいけないとか、そういう気はまったくないんですが、その中にそういう危うさがあるという意味を含めて考えています。

    なぜ、この「生命操作」という言葉をあえて使うかというと、それはご説明したように、生殖技術だったら生殖技術だけとか、そうやって個別に扱うだけでは不十分で、やっぱり現代のいろんな動きというのは絡み合っていますので、それを全体としてつかまえられるような言葉が他にないということがあります。それから、「医療」という言葉を使うと、基本的に「いいことをやっているんだ」という意味合いが入ってしまうので、「医療」とか「治療」といった言葉は、限定的に、括弧つきで使うべきだと思っています。

    それから、女性に関して言いますと、生殖技術というのはジェンダー間で明らかに不均等な技術です。ただ、これはもう生命倫理のあらゆる分野においてそうなんですね。私は今日は、こんな生殖技術の話をしていますけど、今、実は終末期医療に関するある本を編集しています。終末期医療というのも、ジェンダーと非常に深くかかわっているんです。安楽死のようなものについても、夫婦で一緒に暮らしているときに、たとえば延命をやめるとか、あるいは何かアメリカのオレゴン州でやっているような自殺幇助(医師が致死薬を処方する)なんかでも、旦那のほうを奥さんが看取る際に自殺ほう助を行ったり、延命をやめてしまう事例よりも、その逆、すなわち奥さんのほうを旦那が看取る際にそうするほうが圧倒的に多いんです。つまり、ジェンダー差というのは明らかにあります。だから、生命倫理とジェンダーというのは、非常に重要で深刻な問題です。

    それから、今おっしゃったフェミニズムと生命倫理ということでは、私が知っている人ではスーザン・シャーウィンという人がいますね。『No Longer Patient』という本を書いていて、日本語訳も出ていますね。勁草書房だったかな、『もう患者でいるのはよそう』という本です。そういうようにフェミニストの立場から、生命倫理に切り込んでいる人はたくさんいます。

    それから、私はさっき「生命倫理学」というのを非常に大雑把にまとめてしまったけれど、これはいわゆる英米系の主流の生命倫理について言っただけの話で、実際には本当に質問者1さんの言われたとおりで、私はアメリカに11カ月ほどいて分かったんですけど、日本に輸入をされているというか、翻訳書が出ていたりするような生命倫理学(バイオエシックス)というのは、非常に偏っているんですね。非常に自己決定とかを重視するような立場のものとか、あるいは生命倫理学中でも非常に極端な、たとえばピーター・シンガーとか、ああいう人の本がたくさん訳されていて、逆の立場の人のものがあまり訳されていないということは感じます。ただ、主流がそっちだということで、日本でもそれに習おうという方向はありますね。

    ちょっと話を蒸し返すかもしれませんけど、日本でもやっぱり生命倫理学というのが、ある程度「制度化」されてきたというところがあると思うんです。大学や病院の倫理委員会とか、いろんな政府の審議会なんかでもそうですけど。まだ、アメリカで1970年代から80年代にかけて起こったほどは制度化されていないというか、「私はバイオエシシストでございます」という人は少ないんだけれど、たとえば、私が勤めている大学の医学部とかでも、やっぱり生命倫理、医療倫理みたいなものに常勤の研究者を採るようになってきました。だけど、今、非常に悪い傾向だと思うのですが、そういうときに私みたいな宗教学者とか、倫理学者とかが、そこから締め出されるような傾向が非常に強くなってきています。そういう生命倫理や医療倫理のポストの多くは、医師とか法学者で占められるようになってきているんです。なぜかというと、そういう人は新しい医療技術や医学研究を進めるかどうかといったときに、根本的には反対しない。倫理的な問題を一応検討したことにして、注意すべき問題を挙げて、「検討しましたよ」というお墨付きはくれるけど、根本のところから問題を問い直したりするようなことはしない。ところが、宗教学者だとか、哲学者だとか、そんなやつらが出てきたら、議論が錯綜して収拾がつかないというんで、そういうやつをはずしていくみたいな、そういう動きが非常に進んでいます。これは現実です。

    私からのお答えは以上ですが、また島薗先生からお話があったら、なにか付け足すかもしれません。

    島薗: 女性の視点がすごく大事だと思います。私は国の人の胚の研究の討議のときに、「SOSHIREN」という人たちですね、あの方たちは70年代ぐらいからの伝統がある、ウーマン・リブの時代からの蓄積があると思うんですが、非常に大事なことを粘り強く見ていて訴えてきているということで、とても教えられました。時間をかけて、お互いに意見交換をしながらやっているっていうことを聞いています。

    それで、しかも障害者の問題と女性の立場が矛盾することがある。つまり、おなかの中の障害を持った子どもを中絶するのも女性の権利だというのに対して、障害者は、そんなことを女性に決められたら困ると言ったという。それが日本のフェミニズムの生命倫理観に大きな影響を与えていった。これはたいへん大きな世界的にも大いに意義ある貢献だと思います。

    それに対して、医療側、宗教側はどうか、おっしゃるとおりだと思います。日本の医療も、日本の宗教も、やっぱり男性中心。日本の宗教は、いくらかそうじゃない傾向があるところもあるんですけども、全体としては男性中心性が非常に強いと思います。そういうところは、是正していかなきゃいけないと思います。

    それから代理出産については、しかし、アメリカなどでは、例えば同性愛の人も家族にして子どもをつくるということに、代理出産を利用される。だから、ある種のラディカルなフェミニストやジェンダー論者がこういうものをむしろ歓迎しているということもあるようです。たとえば、ジュディー・フォスターですか、あの人たちは、女性だけでお母さんになろうとする。そういうこともできる国です。どこかから精子をもらってくれば自分の子どもができちゃう。そういうのは女性の権利だという考え方もあるので、女性の中にもいろんな立場はある。女性といってもあらゆる女性がいますので、むしろ女性の考えのバラエティーをよく理解する必要がある時代になったんじゃないかと思います。

    安藤: 今の点についてちょっと言いますと、最初期のフェミニズムというのは、実は生殖技術に対して非常に許容的だったんです。要するに、女性を生殖から完全に解放して、人工的な生殖を目指そうと。女性と男性の不平等というのは、究極的には女性が子どもを産まなきゃいけないというところに基づいているから、女性が産まなくてもいいようになったら、女性と男性が完全に平等になるというわけです。そういう、女性を生殖というものから解放すべきだというようなヴィジョンがあった。

    ところが、そういうことは現実的には技術的に不可能だということがわかってきて、生殖技術というのはそういうものじゃなくて、どちらかというと女性に、身体的にも精神的にも非常にストレスを与えて、女性をむしろ固定的な役割に縛り付けるものだというような反対論が多くなってきて、それ以降のフェミニストというのは、生殖技術に対しては非常に批判的な人が多くなってきました。フィンレージの会(不妊の女性のための自助グループ)なんかがその代表です。やっぱり島薗先生が言われたように、一口に女性の立場とか、フェミニズムとかいっても、いろんな流れ、いろんな立場があり得ると思います。

    司会: よろしいですか。

    質問者1: もう一つだけ。ありがとうございます。一つだけ気になっちゃったんです。さっき言い忘れたんですが、経済格差が前提にされて、クローン胚の使用がけん制されていますね。最近、さっき出てきた、例えばインドの事例とかも、かなりひどい状況だと伺いましたけど、ひどいと言っていいのかどうか、インドの場合、そういうことがあったときに、政府を挙げてそういう状態になっている。そうすると、例えば、日本的にシステムが海外へ出ていってしまう。実際に日本だけではない、いろんな国々が、禁止されている国ほどそのように出ていくわけですね。

    そういった経済格差などもあって、許容している国は、とにかくあえて現実の中で、じゃ、倫理的にそれがよくないと言っても、一体どこから変えていったらいいんだろうって、私もすごくいやな展開を感じているんですが、そこらへんについて何か。もちろん一言で表せることなんてないと思うんですけども、どのようにお考えになっているか、ちょっと教えていただきたいんですが。

    島薗: これはもう簡単には解決しないと思うんですけれども。やはり国際社会で解決しなきゃならない問題っていうのが、やっぱりあると思うんです。こういう生殖技術みたいなものは、家族間とか、ジェンダー間とか、国によってものすごく違うんで、共通の基準を世界に当てはめるのは難しいと思います。でも、代理出産を海外へ行ってやってくるということは、やっぱり国際的に解決しなきゃならない問題です。

    臓器移植の問題は、WHOが臓器移植のための海外ツアーはやめましょうという報告を出したわけですから、この問題も、恐らく、私はそう遠くない将来に国際規制に入るだろうと予想していますし、そういう動きを加速するように、われわれは議論を進めていかなければいけないと思っています。

    それは、人胚の研究もそうなんです。これも抜け駆けをして先へやっちゃう国、道徳・倫理的な問題を考慮しない国が得をする、シンガーポールなんかもそうです。シンガーポールの方がいたら申し訳ありませんけど。イスラエルとか、そういうような国が得をするようなシステムは、国際社会として規制していかなきゃならない。これは京都議定書の環境問題でも、そういう国際規制はものすごく難しいです。でも、何とかやっている。グローバル化すれば、われわれは運命を共通に巻き戻す世界に変化しているわけなので、何とかそういう努力を進めなきゃならないと思っています。

    司会: 安藤先生は先ほどのお答えの中で、生命操作、医療という言葉は概してポジティブなというか良い意味に使われているのに対して。

    安藤: 良いというか、そういう技術に「医療」という枠をはめてしまうと、そこで使われている技術が実際には医療以外のものにも使われているという側面が隠されますし、今は認められていないものもあるのですが、その差が非常にあいまいになってしまいます。「医療」という言葉は基本的に、やっぱり非常にポジティブに使われてしまいますよね。

    司会: それに対して、生命操作という言葉自体は?

    安藤: つまり、ここで言うような生命操作技術というのを、医療の中でどれだけ使っていいか、ということの問題なんですよね。これは島薗先生が言われた「正当な医療」ということにもかかわってくるし、どれだけ人の生というのが医療化されることに「イエス」と言うのかということでもあります。最初から医療に取り込まれちゃったところで、いくらその医療の倫理的な問題点はどうだこうだと言ったって、根本の問題はやっぱり解決しないし、問われないままで終わってしまうと思います。そういう点で、従来の生命倫理学とか、医療倫理学というものには、やっぱり非常に限界があります。

    司会: 医療に取り込まれるといった場合に、例えば不妊という問題が1980年ごろから医療に取り込まれたというご指摘。

    安藤: いや、60年代だと思います。

    司会: 1960年代?

    安藤: はい、60年代から、やっぱり出産ということが医療化されて、病院で産むのが当たり前になってくる。そうすると、出産ということが医者や医学にまず結びつくようになるわけです。それまでだったら、私なんかそうですけど、家で産婆さんに介助されて生まれた。別に医師の手によって産まれたわけでもないし、病院で産まれたわけではない。

    ところが、出産が医療の手にゆだねられることによって、たとえば、子どもがほしいのにできない、何でなんだろう、とにかく産科に行って検査をしてみましょう、ということになって、それで後はもう全部医療のレールの上に乗せられてしまうわけです。もちろんそこの中で、たとえば、ここで言う体外受精みたいなものしか方法がありませんと医師に言われたときに、それをただうのみにするのではなくて、そこでもう一度自分で体外受精について調べてみるということは、今だったらできます。いくら医師が成功率に関して非常にいい加減な説明をしたとしても、インターネットで実際の様子をいろいろ調べることもできるし、いろんなネットワークももちろんあるんです。しかし、そういうふうに初めから医療のレールに乗せられてしまっていると、不妊という事態に対してどういう対処ができるのかという多様な選択の全体の中で「医療」的な解決法というのが一つの選択肢として選ばれるんじゃなくて、最初から医療の中に入ってしまっているために、選択が極めてできにくいような状況というのがあるわけです。

    最近、生殖医療の領域で体外受精コーディネーターとか、カウンセラーとか、そういうものをもっと養成しましょうという動きがあって、実際にそういう講習会とかも行われているんですけど、こういう形でのカウンセリングとか心のケアというのは、はじめからいわゆる「不妊治療」は基本的に良いことだという前提に立っているのが問題です。あるいは、日本では体外受精には保険が利かないから、かなりのお金がかかります。お金が続かないからできないという人がずいぶん多い。それを解消するために、今は、何回までとか、女性の年齢とかを区切って補助が出ていますね。あの補助の財源というのは、新エンゼルプランという少子化対策用のお金です。要するに、不妊の女性が子どもを産めるようになれば人口減少に対する対応策になるというわけですが、そこでは不妊に悩んでいる人が本当に幸せになるためにはどうしたらいいか、そのためのいろんなサポートのあり方が考えられていくという以前に、子どもを持てるようになることが不妊の人を幸せにするただ一つの方法であるかのように、それを医療で解決しようというところが、やっぱりまずいんじゃないでしょうか。

    最初からそういう「医療」という枠にあって、そこで非常に心理的な不安や悩みを抱える人もいるからカウンセラーを導入しましょうとか、そういうことを言うには本末転倒なんじゃないか。本来、不妊だったら不妊という経験がその人を非常に苦しめているんだったら、それに対してどういう解決の仕方が、どういうサポートがあり得るのかと、いろいろ多面的に考えるべきだと思うんですけど、それがもう最初から医療に行っちゃっているわけです。

    質問者2: お二人のお話をお聞きして、いろんなことが分かってきましたけれども。島薗先生のお話を伺って、とても、これを使ってくださるといいなという欲求不満があります。それは、代理出産という方法についていろいろお話、デメリット、メリット、いろいろお話しなさいましたけれども、その代理出産を一部の夫婦で、奥さんのほうが不妊で、だんなさんの精子が有効の場合、そういう夫婦の本当の欲求はどうなんだろうか。それで、今お話をうかがうと、その夫婦の欲求を深く追求しないままに、そういう欲求にレスポンスして代理出産という方法がついてきて、その方法について先生がいろいろおっしゃるわけですね。

    ですから私は、この夫婦の欲求が、本当はどういうものなんだろうか。これはジェンダーの部分も入ってくるかもしれないし。その欲求に対してもう少し深く、倫理学者として、本当はどういうことが出てきたのか、本当にこういう欲求に応えていいものだろうかという、そういう欲求に対して、もっともっとディスカッションしてほしいなと、お聞きしてそういうことがあった。

    そして、安藤先生の場合は、もっと突っ込んで、ご自分の体験の人工授精をお話しなさったんですよね?

    安藤: 体外受精です。

    質問者2: 体外受精。それは、もっと突っ込んで、分かっていて、先生の定義からもずっといろいろお話を伺って、いろいろなことが分かったけれども、やはり生命操作に行くまでの根本の人間の欲求ですね、「子どもが欲しい」、この場合ですね、今回は。そういう欲求に対しての、本当に突き詰めた倫理学者としてのディスカッションというか、究明の仕方をもっと私は提示していただきたいと思った。

    やっぱりこの欲求に対して、いろんな利害関係があったり、技術者は今最近の技術を誇示したい、そういう場合もありますね、この中には。いろんな欲求を、悪乗りという言葉はいけませんけど、悪乗りして、いろんな医療者なり科学者であり、そういう人が「こういう方法、こういう方法」って。だから本当に、それが根本の欲求に対してとか、あるいは人間生命にとってどうかということよりも、そういうことが走っていく、独り歩きしているというのが印象的に分かる、お聞きして。

    ですから、もっと根本的に人間の夫婦の欲求、子どもができない、欲しい、そのことについての、それの欲求はいかがなものかという、それこそ、そういうものがもうちょっと聞きたいですね。

    島薗: おっしゃるとおりで、私の話、抜けておりました。でも、一応考えてはいたんです。この3ページなんですけれども、この報告書の欠点でもあるんです。それはどういうことかというと、「自己決定には限界がある」というところなんです。3ページのBの①です。アで、自己決定が大事だと彼らが言っている、そう報告書に書いているわけです。しかし、そこに限界があると言っているんです。 どういうふうにその夫婦の意識決定は行われているんだろうか。本当にそのことが、自分自身の考えと言えるんだろうか、操作されているんじゃないか。マスコミに侵されるんじゃないか。そういう観点がこの報告書には書いていないんです。 例えば、不妊というのは、不妊治療というだけで治さなきゃいけないものだというイメージが振りまかれているような、そこを問題にしなきゃいけません。本当はそこは非常に大事な問題で、安藤さんがかなり問題にされていることも、そういうふうに言ったほうが分かりやすいんじゃないかなという。不妊治療というのは、不妊というのは別に治さなきゃならないもんじゃないのに、そういうイメージを振りまいて、そういう方向に持っていこうとしているという、これは非常に大事な視点だと思います。私ももうちょっとそこのところを追求していかなきゃいけないなと思っています。ありがとうございました。

    安藤: 「欲求」と言われていたけど、私はそれを「欲望」というふうに呼んでいて、ちょっと区別しています。今日の講演会の題にも「欲望と倫理と宗教」とありますが、「欲求」っていうと、どちらかというと生理的欲求のような自然なものを指すのに対して、「欲望」というのは、どんどん加速していくというか、つくられているものもあるし、自分自身でも何がどうなのか分からないままに突き動かされているような面もあると思うんですけど、おっしゃることにはまったく同感です。島薗先生のおっしゃることにも同感なんですけど、二つちょっと例を挙げますね。

    一つは、さっき臓器移植の問題を言いましたけど、寺尾陽子さんという方がおられるのですが、ご存じの方もいらっしゃると思います。岡山の倉敷の方で、幼いころから先天性の心臓の病気で、5歳まで生きられないだろうと言われていたらしいですが、これを越えてずっと生きられたんだけれども、心肺同時移植しか助かる道はないと言われ、高校生ぐらいのときにアメリカに渡って移植手術を受けるということになりました。寄付とかも集まって、マスコミや周囲の人たちも押せ押せになっていたのです。ところが、彼女は途中で自分から拒否されたんですね。「自分は移植を受けない」と。今はどうなっておられるか知らないけど、少なくとも30歳過ぎまでは生きておられました。

    移植を拒否された理由ですが、寺尾さんはお母さんと二人暮らしで、お母さんは離婚されているんですね。お母さんが、心臓病で苦しむ幼いわが子を抱えて、何回も電車に飛び込んで死のうとされたというような話を、小さいときからずっと聞いていたらしいです。それで、もしお母さんが脳死になったとき、自分はお母さんから臓器をもらって生きられるだろうかと考えたときに、彼女は、絶対にそれはできない、と思われたのです。そうすると、自分が臓器をもらうことになる誰かも、やっぱりその人が脳死になったときに同じように思う人がいるに違いない。そういう人から臓器をもらうということはいけないんじゃないか、というふうに、寺尾さんは考えられたということです。

    欲求とか欲望とかという話をすると、文明論的なレベルで、要するに現代の社会というのは私たちがどういうふうに自分たちの欲求や欲望を満たすようなシステムになっているのか、ということが問われると思うんです。今は、医療技術とか生命操作技術というものを介して、結局、自分の欲望を満たすために、何か他者を利用しようとしたり、自分と同じような存在である他者というものを、同じような人間として尊重できないような、ある種の選別というか、そういうものに加担してしまわざるを得ないような、そういう社会になっているんだと思うんですよ。これは生殖技術についても、やっぱり基本的にそうです。

    たとえば、いわゆる不妊治療を受けて、体外受精を受けている人のうちのかなりの人が(何パーセントかはわかりませんが)、いわゆる羊水診断、出生前診断のために羊水診断を受けるんです。理由ははっきりしているんです。体外受精を長いことやっているような人の中には、やっぱり高齢出産になる方もいる。高齢出産になると、いわゆる障害を持った子どもが生まれる確率が高くなりました。女性が35歳ぐらいを境にその率が一気に増えますから。それで出生前診断を受けられる方が多いんです。

    だけど、考えてみれば、ほしいけど子どもができなくて、子どもを授かりたいと思っている女性が、ある種、いのちをそこで選別する、「障害者だったらいらないわ」というようなことになっちゃう。「いらないわ」と思うのかどうか、出生前診断を受けられる目的が、障害を持っていると分かれば中絶しようと思って受けられるのかどうかは分かりませんけれども。だけど、そういう自分のある種の欲望を満たすために、ある選択を行っていることによって、必然的にある種のいのちを選別していったり、切り捨てていったりせざるを得ないような流れの中に自分がいるということは、私たち一人一人が意識しておかねばならないことだと思います。そういう選択は「自己決定」で、「人に迷惑をかけていない」とかと言うけど、実際にはそうじゃないんじゃないかと思うんですね。

    私は、けっして自分が高見の所にいてそういう流れを批判するというか、「いのちの選別なんか、自分はやっていません」とか、「自分は完全な平等主義者です」とか、そんなことを言う気はまったくないんです。自分自身もやっぱり、もし自分が当事者になったら、そういうのをやってしまうんじゃないかなと思うようなところもあります。やっぱりそこをみんなが考えなきゃいけない、と思うんですね。こういう次元の問題は、なかなか生命倫理という議論の上に乗せにくいのですが、自分の欲望というものに自分が向き合うということ、自分がいったい他者とどうかかわって、どうやって他者と共存して社会を作っていくのか、生きていくのか、という根本が問われているように思います。

    質問者3: お話をお聞きして思ったんですけど。例えば、「地獄への道は善意で敷き詰められている」そんなような言葉があるみたいですけど、お二人の先生がおっしゃられたのは、まさしく今の医療とか何とかにおける、小さな善意、その善意の裏に、そういった非常に、本当はちょっと考えれば分かるようなこと、見えないところ、それはたくさんあるというようなことが、やはり今の根本というか、その構造だと思うんですけど。でも、今日行ったようなお話をお聞きしますと、この問題は確かにあるんだなと、非常に分かりやすく思ったんですけど。

    なぜ、今の臓器移植なら臓器移植のキャンペーンとして、さっきおっしゃったような「命のリレー」とか、例えば、代理母の場合でも、そういうアメリカへ行って、「こんなかわいい子が生まれたんだから」と、そういう光の面だけを照らし出すという構造というのは、どういうところにあると思われますか。何かそれを推進するような大きな力があるのか、それとも俗に言う小さな善意が大きくなったかたちで、そういうかたちに生まれてきているのか。そういう光が当たるところの影があるというような教育が、なぜできないのか。

    私は産科婦人科医なんですけど、本当に仲のいいご夫婦で生まれた赤ちゃんに障害があった場合には、そのご夫婦は、より夫婦として成長していくような夫婦もあれば、もうそれで離婚するようなご夫婦もあるんです。そのときに、一緒になった夫婦でさえそうなんだから、例えば代理母の場合なんかは、もしその赤ちゃんに何かそういうものがあったら、ものすごく大きな問題が起こるんじゃないかなと僕は思いますから、代理母とかそういうのは、僕はあまり賛成というか反対なんですけど。

    でも、そういうことは、ちょっと考えれば分かるはずなのに、なぜそういうのに絡む所は言われないのかという、そこの構造がちょっと分からないんですけど、どんなような。

    島薗: 私が親に反抗して嫌われたのは、私の父親は善意の人だったんです。医療というのは人を助けると本気で言っていたし、そのことに生きがいをもっていたわけです。実際に、本当に患者さんが良くなるとうれしいですし、そういう経験はたくさんあると思います。そのために自分を犠牲にして、医者の不養生で早死にが多いですけど。そういう医療の世界の、やっぱりメンタリティーだと思います。やっぱり良いことをする世界なので、そういう教育を受けているし、実際に日々の経験の中で障害さえ感じることが多い。恐らく、質問者3さんは、その影の面を非常に個人としてみごとに体験されたので、一般常識に立ち返ったというか。私の場合は、父の善意がややにくたらしくなって反抗したということがあります。

    現代の世界は、そういう医療の世界と産業が結び付いている。環境の世界は、こっちのほうでいいことをしようと思ったら、別の面で悪いことが起こるということを、いわゆる副作用、これを徹底的に研究する科学に展開してきたわけです。エコロジーというものの中に、そういう側面があると思います。

    医学は個々の病気を治す、そういう非常に専門的な、特殊な目に限って、専門主義な研究で、今までたくさんの成果を上げてきた。ですから、副作用的な視野が少ない。さらにそれが最先端の産業に結び付いた。そういういろんな条件が結び付いて、医療の欠点が、そういう善意しか見ない異様な態度が広まっている原因になっているというふうに信頼しています。そのへんはまだ、そういう議論をあまり聞かないですが、そういうふうな研究が必要になってきていると思います。

    われわれは最先端の生命学をやっている方に、その疑問を投げかけています。そうすると、困った顔をします。ということは、普段、どういう理由でか、そういう面を見ないようなシステムが出来上がっているということなんです。

    質問者3: それは、意図的に見ないようにしているんですか? 何か裏で、一抹絡んでいるんですか?

    島薗: すごく分かりやすいのは、要するに科学の競争に負けてはいけないんです。例えば、臓器移植も、できないということは、世界の最先端の医療から遅れてしまう。その科学の競争の中で行われていますので、科学者はそれに何とか追いつかなきゃいけない。

    質問者3: 例えば、マスコミとかが、そういう先端医療か何かをサポートするような一面の限定した情報を、それは背後にそういうスポンサーとかそういうものがあるというような?

    島薗: これは、私は、自分でその制度の委員会に入ったときに分かったことなんですが、大新聞の科学部の記者は、主な取材を、そういう大組織の研究者から得ている。ですから、その人たちの考え方に非常に近づいています。むしろ地方新聞の、普段は広い日常生活の問題を扱っている人が、この問題を取材すると、市民の感覚に近い反応をされています。そんないろんなシステムが、いろんなところに隠れている。

    司会: 安藤先生は、今の問題はよろしいですか?

    安藤: ほとんど同じなんですけど、今、これは日本だけの現象ではないと思うんですけれど、難しい問題に対して、実際にはこっちの立場もあれば、あっちの立場もあるというものに対して、一方の当事者だけにすごい共感をあおって、「これに違いない」と思いこませてしまうような傾向が、社会の中で現実にものすごく進んでいる感じがします。

    一番具体的なのは死刑問題で、たとえば、殺人の被害者の遺族だけに一方的な感情移入をして、「そういうのは死刑が当然だ」というような意見ばかりがグッとばらまかれるとか。臓器移植には、やっぱりそれに近いようなところがありました。反対派や慎重派の人たちを、フジテレビはわりと取り上げましたけど、NHKはかなり偏向報道だったと思います。そういう社会全体の動きというのがあると思うし、質問者3さんが言われたように教育の問題というのはやっぱり大きいと思います。

    やっぱり、どんな問題であっても、同じ問題を、こっちから見るとこう見えるよとか、その裏側があるよというようなことが、きちんとあるに決まっているわけなんですけど、それを本当に見ていないというか、見ていないほど一方的な煽動をする人に動かされて、特に人間というのはやっぱり感情で動くから、ある人たちに強烈に共感したりとかしたら、「何でこんなに臓器移植で助かる子どもがいるのに、それに反対しているやつなんて、何なんだ!」みたいな感じになるんです。

    そういういろんな意見が割れているとか、議論になっているということは、当然どちら側にもそれなりの根拠がある話で、それを客観的に慎重に見てみようとかというふうに思わないで、あるパッと流されたものにトンと飛びついて、自分の意見を正当化するような、そういう傾向がこのごろは強くて、これは非常に怖い傾向だと思っています。情報というのはたくさん流れているように見えて、実は一つの枠の中で情報操作的なものが行われている場合が多いです。

    司会: それでは、これで終了の時間になりましたので、おしまいにしたいと思います。今日来てくださった方々、ありがとうございました。(拍手)