HOME > イベント > 報告(2010年6月19日)

齋藤有紀子(北里大学医学部附属医学教育研究開発センター医学原論研究部門准教授)

「医療における女性の自己決定」

 

(当日の講演をもとに要約したものです)

「医療における女性の自己決定」という概念を、相対化してみたい。これまで「産む・産まないは、女性が決める」という言葉使いがされてきた。70年代の「ロウ対ウェイド判決」以降、女性の自己決定の問題は胎児生命との関わりの中で多く語られてきた。1980年代以降、日本で「生命倫理」という言葉が定着し始め、医療倫理や生命倫理、新しいリプロダクションにかかわる医療技術との関係の中で「女性の自己決定」が言われ始めた。

1983年に東北大学で日本初の体外受精児が産まれ、生殖補助医療が日本の医療の領域に参入し始めた。しかしそのころの助産師たちの生殖補助医療に関する反応は否定的だった。マスコミも引いた姿勢で報道したため、生殖技術に共感する助産師がいたとしても、社会的には表明しにくい状況だった。1980年代には出生前診断も問題視され始めた。当時の超音波検査は今のように精密ではなく、胎児の成長を妊婦と確認し合うツールであり、出生前診断はもっぱら羊水検査で行われていた。

90年代に受精卵診断が出てきたときには、倫理的に非常に良いという言われ方をした。羊水検査で障害が発見されれば中絶を免れないのに対し、受精卵のうちに子どもの障害が分かれば、そういう卵(胚)を戻さないようにすることで中絶を避けられるとされた。この「倫理的に良い」という言葉がキー語として医療現場でも語られるようになったことは、当時の私には不思議であった。不妊でない女性にまで心身の負担とリスクがかかる体外受精技術を使い、障害児を生まないようにするということは、外からの評価ではなく当事者の納得の度合いと決断の問題のはずである。それなのに、技術がすでに倫理的な性格付けを持って出てきていた。

「出産」に付随する医療、着床前診断や不妊治療などはドクターの裁量に任せながら行われる部分が大きい。母体保護法上の人工妊娠中絶の規定の解釈などもそうである。減胎手術、代理出産、第三者のための卵子提供、死後生殖の問題、さらに臨床研究で行われている卵巣・卵子そのものの凍結。これらが法的にどういう位置付けになるのかはまだ曖昧なまま実行されている。単なる疾患や治療という枠組みを超えて、生殖技術に頼った自己決定が欲望とともにエンドレスに肥大化していく状況下で、これまでポジティブに捉えられていた「自己決定」に対し「要注意だ」という第一印象を持つ者が出てくるのは自然である。

昔は、医師主導の関係性が主であった。その主体が徐々に変わり、当事者の自立の問題になってきた。しかしリプロダクションをめぐる技術の場合には、当事者がその裁量を持ったとき、次に産まれてくる生命や他人の体の問題が関わることになる。また、身体、あるいはリプロダクションが持っている社会・文化的な位置付けを考慮する立場から、当事者の裁量という問題に対して警告を発する社会の動きも出てくる。他人の治療のために自分の体や細胞を使う、代理出産や卵子提供の問題、あるいは、そもそも裁量や自己決定が、実は社会の価値観に基づいた押しつけの幸福感なのではないかという問題などである。

出生前の妊婦に行われる処置の一つに「母体血清マーカー検査」がある。障害児を産む確率を診断する検査である。厚労省の研究委員会で話し合われたのは、その検査結果を医師が伝えるかどうかである。「検査を知らせるべきである」、「知らせる必要がある」、「知らせても良い」、「知らせなくても良い」、「知らせる必要はない」、「知らせるべきではない」というグラデーションが出された。結局、どれも「医師が」主語である以上パターナリズムを免れないのだが、結果は、検査を「あえて教える必要はない」というものだった。決断の主体である女性に「知らせるべき」、「知らされる必要がある」という話には結局ならなかった。

これを、「健康な子どもを産みなさい」といった圧力や勧誘や決断の強要からの保護と捉えることもできる。しかし一方で、自分の体に非常に身近に起きる妊娠出産を他人からコントロールされること自体も、女性にとって問題が大きい。「女性の○○」というクラッシクなテーマを嫌う人々がいることは承知しているが、「女性の自己決定」という問題設定を葬り去ることはまだ出来ない。

議論すべき問題は多い。女性が自己決定を都合よく使い分けているのではないかと言われることがある。女性の自己決定自体が社会に作られたもので本物ではないと、女性の自己決定を少し『』(カギカッコ)付きにするやり方をしながら、最終決定において、自分の体や心、胎児の問題を他者に委ねることに循環していく場合も起こる。あるいは「女性の」では説明できない妊婦、「インターセックス」、性同一性障害の人などのグラデーションの問題。最後に、都合の悪い自己決定と都合のいい自己決定。女性の自己決定の主張に、都合のいい自己決定と悪い自己決定はあるのか。それとも、一見都合が悪い自己決定は誰かの圧力の影響を受けていて、真の自己決定ではないのか。こうした「自己決定」という言葉とどう付き合うかを、皆さんと一緒に考えていけたならうれしい。

(当日の講演をもとに要約したものです)