HOME > イベント > 報告(2011年1月22日)

粟屋剛(岡山大学・医歯薬学総合研究科・生命倫理学分野/生命倫理・医事法)

「アジアへの移植ツーリズム―その現実、法、倫理―」

 

本日のテーマは「アジアへの移植ツーリズム」である。最初に中国の死刑囚移植問題、それからフィリピン、インドの臓器売買とその延長線上にある人体の資源化・商品化の問題、最後に移植ツーリズムの一般論、という順で論じたい。


最初に、中国の死刑囚移植の問題。中国は臓器移植に「死刑囚を使っていない」と言ってきたが、1994年以降事実が判明し始め、80年代から中国は国家ぐるみで死刑囚を使っていたことが分かった。1984年10月9日付の内部文書には「死刑執行命令が下達したのち、直接利用できる死体が出たら、人民法院は、あらゆる地区の衛生局に通知しなければならない」と書いてある。「証明書を発行して・・・」とか、「死刑囚の死体および死体臓器の利用の秘密を厳重に守る。衛星部門のマークの入った車を使ってはいけない。白衣を使ってはいけない」などとも書かれている。


中国はアメリカに次ぐ移植大国である。日本の2万件に対し、移植件数は2009年の時点で8万5,000件。心肺同時移植、膵腎同時移植などあらゆるものが行われている。移植を受ける患者は高級官僚や特権階級の人やお金持ち。香港、台湾、シンガーポールなどの「人種的」には中国人である華僑や日本人などである。アラブ世界からも来ている。


死刑執行の統計数字は公表されていないが、アムネスティなどが2,000から6,000の間と見積もっている。窃盗罪でも死刑になり、公開処刑は半公然と行われている(いた)。1997年から薬物による注射殺の死刑が合法化された。生体組織の保存のためには注射殺の方が好都合だという背景があるのだろう。


死刑囚移植の論理は廃物利用理論である。中国では臓器売買は禁止されているが、死刑囚移植は禁止されていない。死刑囚本人の同意がなくても家族の同意があればできるわけで、これは「自己決定権の空洞化」と呼ぶべき非常に大きな問題だと考える。


先進国の認識からすれば、中国の死刑囚の臓器移植は人権上の問題である。「人権は経済の関数」と言える。分母である「人口」が大きくなればなるほど人権は小さくなるし、分子である「経済」が大きくなればなるほど人権は大きくなる。GDPで世界2位になった中国は、変わるべき時にきている。バスの中で注射殺を執行するという「死刑バス」も倫理的問題が大きい。小林先生の論文や、カール・ベッカー氏の論文、城山氏の『中国臓器市場』などが、これらの問題を考える参考になると思う。


私は最近中国でプラスティネーション調査を行った。焼き場の前で死刑囚の死体を買い、プラスティネーションを行って日本に輸出する。日本の業者は死体を「借りている」と言うが、向こうの業者は「売った」と言う。これは死体の商品化である。死体の売買では、アメリカ陸軍がUCLAから買って、地雷の爆破実験に使っていたということもあった。


以上、中国の死刑囚移植問題の話である。次に臓器売買の話に移りたい。


臓器売買の行き着く先に人体の資源化・商品化の問題が見えてくる。生命の商品化、性の商品化などとパラレルに考えることもできる。フィリピンではずいぶん前から臓器売買が行われている。これまでにフィリピンで移植を受けた患者数は、欧米人とアラブ人が同じぐらいで、日本人は多く見積もっても数百人だと思われる。フィリピンで臓器を売った人たちが入っている刑務所に調査に行って聞いたところ、臓器を提供すれば刑は軽くなるという(当時)。契約書なり誓約書には、「あなたは腎臓病で困っているから私の腎臓を1つ提供します。まったくボランティアで」とあり、一方は「あなたはお金に困っているから、私はあなたにお金を寄付します」とある。両方合わせたら臓器売買のかたちになる。


フィリピンでの300人を対象にした調査を紹介する。ドナーは、「臓器提供の後に健康状態が低下したと思うか」という質問に約70%の人が「健康は低下していない」と答えている。欧米の研究者がネットなどに載せている「多くが健康が低下、大変な人生を送った」というデータと逆である。


「受け取ったお金を何に使ったか」との質問には、家に出費した、生活費、借金の支払い、病院費など、と答えた。「ドネーション(提供)した後に経済状態が改善したと感じているか」という質問では、40%がイエス、36%の人はノーであった。「後悔しているか」に、「イエス」が26%、「後悔していない」が71%。これも一般には、よく逆のことが言われている。これと対比すると面白いが、道徳的な罪を犯したと思っている人が多く68%いた。29%の人はノーである。結局、「罪の意識を心のどこかに持っているけれど、後悔はしていない」ということだろう。「強制されたと思うか」という質問では、イエスが29%、ノーが71%であった。


移植用の臓器の売買はたいていどこの国でも法律で禁止されている。禁止されていない国はフィリピンで、正確に言えば罰則がない国である。フィリピンは逆に進めようともしている(いた)。インドでは臓器売買が法律により禁止され、アンダーグラウンドで売買による移植が行われている。55人を対象とする私の調査では、ドナーの最年少は14歳、最高齢は41歳。性別は女性が60%だった。なお、フィリピンでは逆に男性の方が多い。フィリピンでもインドでもドナーはたいてい底辺層の人々で、臓器売買においても搾取が行なわれている。こうした状況を黙認、放置していることは、それに加担していることと同じであると考えられる。


人体は値段を付けることができる時代になった。アメリカでは、ヒト組織すなわち、心臓弁、アキレス腱、血管など、各部位が冷凍保存され、実質的に値段も付いて、売られている。医学研究用の臓器、アルコール中毒患者の肝臓、脳腫瘍患者の脳などは合法的に取引され、研究が積まれている。こうした人体部品はほぼ合法的に取引されている。


移植ツーリズムは、移植商業主義の可能性と、受け入れ国の移植医療の機会減少の可能性を含んでいる。移植ツーリズムのために国内の臓器が不足すると臓器摩擦が発生する。「臓器不足」と表現すると、不足していることが何か悪いことというイメージになる。臓器提供は当然で「臓器をもらう権利がある」という考え方につながる。日本で「臓器不足」という言葉が使われるのは、欧米から比べると少ないからである。イスタンブール宣言には「国や地域は、自国あるいは近隣の協力の下に、臓器を必要とする者のために必要な数の臓器を確保し、臓器提供の自給自足を達成するための努力をすべきである」とある。マスコミの論調も「命のリレーを早くやれ」、である。


メディカルツーリズムは、日本でも各自治体が一生懸命になっている。それを「亡国のシナリオ」と呼ぶ医師もいる。『週刊朝日』の記事や三枝先生の『世界の名医があなたを待っている』などを見ても、メディカルツーリズムの浸透ぶりがわかる。


移植ツーリズムがなぜ悪いか。ただ「いけない」と言うのは無謀である。国際社会が足並みをそろえて禁止する問題ではなくて、それぞれの国が自分の国で臓器が不足しているから、一時的であれ外国には提供しないという政策を展開すれば済む。また、ツーリズムの引き起こす社会経済的な問題は根本的には解決されない。


一部の人の善意に頼るシステムは危ない。善意を強制することはさらに危ない。「地獄への道は善意

で敷き詰められている」という格言をここに記して締めくくりたい。
(当日の講演をもとに要約したものです)