HOME > イベント > 報告(2011年1月22日)

柘植あづみ(明治学院大学・社会学部社会学科/医療人類学)

「精子提供と卵子提供の比較検討」

 

(当日の講演をもとに要約したものです)

テーマは「精子提供と卵子提供の比較検討」である。提供精子によって子どもを持つことと、提供卵子によって子どもを持つことは何が違うのか。一般的に「卵子を提供するほうが体に負担があり大変だ」と思う人は多い。あるいは、精子と卵子はどちらも今のところ受精に必須で、同じ遺伝情報を半分ずつ持っているので、「数としては同じ」という生物学的な考え方もある。

では「違う」とはどういう違いか。日本では、提供精子は1997年に産科婦人科学会が指針を設けて認めている。一方、提供卵子については法律がないという理由から産科婦人科学会が認めていない。産科婦人科学会とは別に、「日本生殖補助医療標準化機関」通称「JISART」が、姉妹や友人からの卵子提供を自分たちの倫理指針を設けて実施している。

「違う」ことを医療の側面から見ると、卵子採取は身体の負担が大きく、精子採取よりリスクが大きいという違いがある。法律の側面から見ると、日本では、提供精子で子どもを持った男性が父と認められるには、日本の法律上は出産した女性の夫でなければいけないが、提供卵子で子どもを持った女性は、結婚していなくても出産すれば自動的に母になる。この規制はいろいろ複雑になっているが、こうした精子提供と卵子提供への法的な対応の違いがある。

心理的な側面でも違いが生じる。提供精子の場合の法的な父親と違い、提供卵子の場合には、法的な母とされる人は遺伝的なつながりはないものの、自分で妊娠・出産するという遺伝以外の生物学的なつながりが生じる。提供精子の場合には、「育てる」ことにより父親と子どものきずなが作られ、提供卵子の場合、「妊娠・出産」と「育てる」ことにより母親と子どものきずなが作られるといえる。ただ、これは論理的な見方で、実際の心理については詳しい調査データに基づいたものではない。

さらに、現状では、精子提供は日本国内で行われているが、卵子提供の場合は圧倒的に国外で行われることが多い。代理出産や卵子・精子を外国に買いに行く生殖ツーリズムと言われる状況には問題が多い。人間の身体の一部を部品、物にして、それに価値を付けて売り買いをすることをしてもいいのかという疑問が当然出てくる。

アメリカ生殖医学会(ASRM)にはガイドラインがあり、その中で精子・卵子提供、代理母への謝礼は、精子や卵子、あるいは新生児の価格ではなく、「労働への対価」といった説明がされている。しかし実際には学歴や容姿、スポーツ能力、芸術の才能などで卵子などの値段が明確に違い、「売っているのではない」とは言えない状況にある。

精子・卵子売買には、①身体の一部の売買、②商品化に伴う対価の格差、③搾取の構造の3つの問題が絡み合っている。精子・卵子の取引は国際的になっている。アメリカで「Food and Drug Administration」FDAが精子の輸出入などを規制する一方、デンマークは世界一の精子輸出国である。デンマークの凍結保存された精子が世界を移動して、使用されて子どもが生まれている。一方、卵子は凍結保存が難しいため「妊娠する女性が移動する」、つまり妊娠を望む女性がインドなどに行き、そこで卵子を買って妊娠して戻ってくるパターンが多い。こうしたツーリズムは①②③すべての問題を含んでいる。

では、無償なら良いのか。例えば、日本のJISARTの場合は、姉妹か友人が提供を期待されている。英語の論文では「利他的な行為」(altruism)という言葉がとてもよく出てくる。原則ほぼ無償であることを条件に卵提供を認めている国もある。そうした国では、基本的に提供者不足であり、結局は価格の安い外国に行って買ってくる人たちが後を絶たない。

これとは別に、研究用の卵子提供の需要も高い。韓国のファン・ウソク元ソウル大学教授は、研究のために卵子提供する人たちを「ビューティフル・ウーマン」と呼び、「利他的な行為」であることを非常に強調した。しかし提供者の多くは病人の家族や研究員だったという事実を考えると、そこに見えない圧力が作用していたといえる。

最近の文献の中で、このテーマにかかわるものを2つ紹介したい。一つは、精子ドナーの提供動機はお金で、卵子ドナーの動機は人助けであるという言説について研究した論文。エージェントは「人助けしてくれる人を求む」と卵子提供者を募集し、卵子を買う人も、ドナーのプロフィールに「人のため」、「子どもを持たせてあげたい」と書いてあるほうが心地良い。つまり卵子を売る戦略であるという指摘である。

二つ目の論文は、スペインの卵子提供の調査。スペインでは卵子提供者は経費程度のわずかな金銭しか受け取れないために「人のため」ということが非常に強調される。卵子を提供した人に「何をあげたと思うのか」という質問には「あげたのは(子どもではなく)物質、物、遺伝物質」、「献血と同じで血をあげる感覚」などの答えがあがったと紹介されていた。「生まれた子どもに対する愛情は」の質問には「わかない」、「親子の愛情は育てることで形成される、遺伝ではない」という回答があったという。少額な謝礼については、「卵子採取は大変だったから、もらって当然」という回答であった。

私が以前アメリカのASRMの指針を守っているとする産婦人科医にインタビューした時も、「彼女たちは支払いを受けるけど、それは彼女たちの経験と行為に対してで、卵に対してではない」と説明していた。アジア系女性卵子のエージェントにインタビューした時も、いかに女性が利他的な気持ちで卵子提供しているかを強調していた。しかし、韓国でファン・ウソクの研究のために卵子提供した女性や、自分の卵子を友達にあげたオーストラリア人女性の話を聞くと、その利他的な行為であることを強調することによって女性に卵子を提供させている問題があると思う。

卵子提供者に「人助け」をしていると思わせることは、生殖ツーリズムにとっても必要なことであるようだ。「人助け」という言葉で搾取の構造は隠され、さらに安価な卵子提供が要求される。精子提供者も搾取されているのは同じかもしれないが、彼らがお金のためと認識している限りにおいては、「人助け」よりも「物を売っている」という認識がなされるようだ。精子は、人体から切り離された遺伝的物質として考えやすいのが、卵子とは違うのかもしれない。

最後に、科学・医学の国際競争が、愛国心とともに鼓舞されて、なおかつその国際競争に勝つために、海外の人的資源である人体を使うことが生じている。そうした目でこの問題を見ていくべきであると思っている。

(当日の講演をもとに要約したものです)