HOME > イベント > 共催研究会(東京:2010年3月21日)

    質疑応答 (講演内容はこちら)

    司会:ありがとうございました。それでは、質疑応答に入りますので、質問ある方。

    小椋宗一郎:(東京大学人文社会系研究科・グローバルCOEプログラム特任研究員)小椋です。3ページ目の資料によりますと、やはり英米欧諸国の生命倫理と大陸法諸国の生命倫理は違う。一方は個人主義、一方は人格主義を目指しているかというのは、今日は僕もそのとおりだと思っていますけれども、微妙に僕が考える人間の尊厳というのと、秋葉先生がおっしゃる人間の尊厳というのは違っています。それはそもそも訳語の問題から明らかです。つまりドイツ語であれば人間というのはメンシュ(Mensch)というわけで、尊厳は、このMensch、英語で言うとhuman beingに備わるものであって、必ずしも人格というものに備わることを考えていないわけなのです。

    ですから、1つ例を挙げると、人格権という言葉が強く出てきましたけれども、ドイツで人格権というと、自分自身のオリジナルな生き方を形づくっていくという意味なのです。自分の人格を展開していく権利、と〔ドイツ〕憲法第2条〔人格権〕は説明されます。イタリアの人格権というのは、途中でおっしゃったように、例えば両親から生まれる権利なのだと。家族とのつながりを持つ権利なのだとおっしゃるので、微妙に同じ人格権という言葉でも違いがあるのではないかと思いました。

    やはり一番違うのは、例えばドイツ憲法、今日の短い時間では説明できないと思いますけれども、ドイツ憲法に取り入れられた人間の尊厳という概念に、一番決定的なのはカントの哲学です。それ以前、歴史的には人格主義の分脈から生まれてきたのは確かなのだけれども、カントと1945年以降のそれへの反省に立っている。ドイツの〔「法と倫理」〕審議会は、もはやキリスト教という特定の価値観には基づかないと言います。しかし、必ずしも反宗教的なわけではなくて、多元的な価値観に基づきます。その中にもちろんキリスト教カトリックも入ってきます。しかし、ほかの価値観を持つ人たちの総意でもって、その後憲法は支えられているのだという認識を持っているわけです。

    もう1点だけ触れておきたいのは、関係的自己というもののとらえ方に関して。受精卵から人であるとカトリックでは捉えます。しかしドイツの審議会報告書などでは、産まれてからは完全に人であるとは言えるのだけれども、尊厳が備わるのはあくまでも人間なので、受精してから産まれるまでの間、その存在は人間の生命であって、人であるとも、人でもないとも言わないわけです。パーソン論のように人でないと言い切らない。しかし、人である、そこには魂が存するのだという言い方はできないのだと思います。

    ツバイハイト・イン・アインハイト(Zweiheit in Einheit)という概念があります。中絶問題に関して言えば、胎児がもし人であるならば、その人を殺したのならば殺人罪に問われるわけです。ですから、堕胎罪はそもそもいらなくなるし、中絶した女性、医師は殺人罪に問われて何十年も刑務所に入れられるべきということになります。しかし、それを堕胎罪という形で、あるいはドイツのように相談を挟むという形で、未来への取り組みにつなげていけるのは、やはり〔人であると言い切ることに対する〕懐疑的態度のためだと思われます。やはり人であると言いきってしまわないという違いは大きいと思っています。

    秋葉:幾つかお答えできると思います。最初のメンシュとパーソンについて。パーソンという言葉はもともと「人格」という意味ではなくて、「ペルソナ」(persona)という神の位格のことでした。神には「父」と「子」と「聖霊」の3つの位格があります。それがペルソナ、パーソンなのです。「父」と「子」と「聖霊」の3つで1つの神なのです。その3つは相互にやりとりするのです。「父」と「子」から出る「聖霊」は愛だと思っていただいていいのですが、その「父」と「子」が愛の交流をする、それがキリスト教の神です。よく一神教と言われるのですけれども、3つのペルソナがあって、その交流自体が神なのです。

    今、このペルソナ概念を重視して、議論を組み立てることを試みています。稲垣良典先生というトマス・アクィナス研究の大家が、最近、「自存する関係」というトマスのペルソナ概念に着目しています。「自ら存在する関係」、これがトマスのペルソナ概念です。

    人格についてはいろいろな説明の仕方があります。人間とは何かを定義するわけなので、人間のどの部分に目をとめるかで説明は全然違ってきます。ドイツがカントをもとにしているのは、共通の哲学で議論をしようと思ったからです。キリスト教の神学の部分を切り捨てて共通の概念のみを取り上げて世俗的な哲学にしようと思ったのがカントですけれども、下手をすると理神論になります。

    今おっしゃったようなことは、神学者の間でさかんに議論されています。イタリアでいくつか、カントの悪いバージョンがたくさん生命倫理で使われている、カントの読み直しが必要だ、ということを指摘する文献を手にしました。読みこなせなくて断念しましたが、理神論的な部分の強調に対する警告は、いろいろなところで発せられていて、人格概念の定義のし直しという、先ほどの稲垣先生のような取り組みも出てきたということです。

    人格あるいは人間の始まりがいつかということについては、今日は説明できなかった部分なのですが、たとえばブロックで橋を造るときに、最初のブロックを1個置く。このとき、それは塀か家か橋かわからないです。しかしその橋の設計者は、橋を設計したのですから、その橋を造るための最初のブロックを1個据えたときに、そのブロックは何かと言われたら、マテリアルはブロックですが、フォルムは橋です。最初の1個のときから橋です。ですから、物理的なヒトの始まりがあれば、その生命体のDNAがヒトのDNAであるのであれば、それはもう人間なのです。そういう議論をしています。しかしフォルムとマテリアルを持ち出すのは形而上学だといって、以前、研究会で日本の哲学者に批判されたことがあります。

    中絶の問題は、人間の始まりの問題と一緒に論ずると話がややこしくなります。これは別の問題です。母体外に受精卵が存在していて、それを毀滅できるかどうかという議論と、おなかの中にいる赤ちゃんをお母さんが中絶してもいいかどうかという議論とは同列には論じられません。ですから、これは別の倫理の問題としてとらえます。

    これについても、今イタリアで中絶法の見直しも始まっています。きちんと議論をフォローしていないので今、ご説明できないのですけれども、数年前、この問題について簡単な論文を書きました。人間の命を殺すことは、法的には違法です。正当ではありません。人殺しは正当防衛など、いくつかの例外を除いて基本的に違法ですが、違法行為を犯したお母さんの行為を処罰するかどうかは別の問題です。

    刑法は違法であるだけで処罰しません。違法性と責任と両方がなければ犯罪は成立しないのです。強姦されたような場合、中絶するなということは言えない。この場合お母さんには殺すなということを期待できません。「期待可能性の理論」というのがあって、あるいは、「緊急避難」のような条文もありますので、刑法上は責任阻却という形で、これは犯罪にはなりません。これが私の理解です。

    つまり、人をあやめることについては、正当である、すなわち違法性がないとは言えません。そのときお母さんが殺すことが「正しい」とまでは言えないです。しかし、中絶の違法性は維持するけれども、そのお母さんについては責任を阻却することができます。だけれども、シャーレの中の受精卵を誰かが壊したときに、そういう期待可能性の理論は使えないですから、体外受精卵の議論をするときに、その妊娠したお母さんと赤ちゃんとの関係を持ってくることは全然違う、というのがヴァチカンとイタリアでの議論です。

    小椋:1つレンガを積んだとき、それは橋のマテリアルだけれど、すでに橋のフォルムもまた別にあるというお話をされました。しかし他方では、神と子と聖霊の関係にならって共同性をもつ人と人との関係の中の人なのだとおっしゃいました。

    胎児という存在は、生物学的に切り開いてみれば、そこに受精卵があり胎児がいるのでしょうけれども、妊娠という状態では、妊娠という事実をその人しか知らないかもしれないし、その人さえ知らないかもしれないのです。ドイツの第二次堕胎判決が言うには、もう既に中絶するかしないかというときには、自分自身の運命がミットベシュティムト・ザイン(mitbestimmt sein)、つまり子どもとともに定められている状態だとされます。

    ですから、ヴァチカンのように生物学的な説明だけから胎児の法的地位というものを導くわけではなくて、ある社会的な意味での人間のとらえ方から答えを見出しているところが違うと考えています。

    秋葉:先ほどお答えするのを忘れたところですが、母と子の間には、先ほどご説明した、生化学的なレベルでの交流はあるのです。お母さんが子どもを下ろそうと思っていても、あるいはお母さんがまだ妊娠していることを知らなくても、子宮の中で生化学のレベルでたんぱく質やホルモンのやりとりがあります。交流です。

    もう一つは、カントの理神論を先ほど批判したのですが、今ヴァチカンで試みようとしてことは、自然道徳法をもう1度構築しようということです。ハーバーマスとラッツィンガーの対話が行われたのですが、ラッツィンガーはこのとき、「キリスト教の倫理は普遍ではない」ということをはっきり言っています。ハーバーマスは「対話」をします(ディスクルス)。ですから、個人主義生命倫理が反抗から出てきたことは間違いないのだけれども、両者は協調できないから決裂、というのでなくて、どちらも普遍ではない。カトリックも、とにかく現教皇が普遍ではないと言っています。それで、ヴァチカンで今目指しているのは自然道徳法です。それで、他宗教の人を招いて一緒に会議を開催したりしているわけです。つまり、共通点を見出そうというのです。

    人間の尊厳概念を世界人権宣言を持ち込んだのはジャック・マリタンでしたが、これは、彼が一番心配していたことでした。人間の尊厳という概念はキリスト教以前にさかのぼることができるようですが、うまく共通の意義を見つけていかないとバラバラになってしまうということをマリタンはすごく心配していました。ヴァチカンが今目指しているのは、それを構築するための対話を続けていって、何とか共通項を見いだせないだろうかということです。それをかなり組織的にやっています。

    石川公彌子(東京大学人文社会系研究科・グローバルCOEプログラム特任研究員):今のお話に関連して伺いたいのですけれども、例えば神道とカトリックの生命倫理観の共通の可能性というのを伺いたいのですが、具体的には日本の宗教の場合、平田篤胤がマテオ・リッチなどの漢訳のカトリック関係の書籍の影響を受けて、幽冥論を展開し、そこで死後の審判概念であるとか、オオクニヌシが死後の世界を統一していて、それをゴッドだというように表現しているのです。

    ですが、明治以降にいわゆる国家神道が整理されていく過程において、天皇制に抵触しないように教義が変えられていってしまって、死後の審判概念というものがなくなってしまいましたし、その死後の世界を統一していたオオクニヌシというのは、アマテラスの下 に置かれる存在として変えられていったという経緯がありまして、ただ戦後になりますと、GHQが神道指令を出してきて、神道の存続が危うくなってくるという状況が出てきますと、特に折口信夫が戦前からの国家神道批判を展開させて、神道の普遍宗教化ということを明確に主張して、死後の審判概念の復活や、オオクニヌシを中心として一神教的な神道を主張します。戦後、GHQによる神道指令によって神道の存続が危うくなっていくと、神社本庁がかなり積極的に折口の思想を取り入れようとする流れがあって、同時期に例えば高松宮が神道はキリスト教とタイアップするべきだということを述べるのです。特に、教学面において、神道にはそういう教学が欠けているので、キリスト教から教学部分を借りるべきだということが主張されていきまして、歴史的に言えば、神道指令の適用条件が緩和されて、神道の存続が決まったことによって、折口であるとか、高松宮のような神道のキリスト教とのタイアップ説というのが、実は追放されていくことになるのですけれども。

    歴史的にはこういう経緯がありますので、私個人としてはかなり神道とキリスト教の生命倫理観といったものには共通性が見いだせるのではないかと考えていますが、その辺いかがお考えなのか、お聞きしたいと思います。

    秋葉:最初にグレゴリアン大学に留学したときに、国学院大学から毎年研究生が来ていました。それから、後にローマ・カトリック大学でお世話になったセラ先生は、ヒト遺伝学の名誉教授でした。彼のところには大本教の人も勉強に来ていて、大本教ではそれをもとにして、ES細胞研究に反対の意見を表明したと聞いています。グレゴリアンには天理教と、創価学会の人も来ていました。私がヒトの初期胚の尊厳の話の依頼を最初にいただいたのは創価学会の研究機関でした。

    大井玄先生の著書を引用させていただいたのは本日が初めてでしたが、大井先生の著書は、仏教のアラヤー識とか、そういう仏教の宇宙観、人間観に関する説明がかなりの部分を占めています。この中に無意識についての仏教的な説明があり、大井先生が別の立場からカトリックと同じ結論を導いておられるのを見て、仏教とも接点があるのだろうと思いました。ですから、もとがヒポクラテスの「医の倫理」であるところからもわかるように、人格主義生命倫理が自然道徳法にかなった考え方であるとすると、倫理の問題に敏感な人たちは、多分、この立場に賛同するのだろうと思います。ですから、神道と同じ考えであっても一つも不思議ではないし、カトリックがやっていることは、本当に「ヒポクラテスの現代化」ですので、普遍的に使うことができるのではないかと私は思っています。

    今、富山県の医師会で、延命治療の中止の問題について取り組みが行われておりますので、イタリア医師会の職業倫理規則をご紹介したりしています。倫理の問題を中心にして、なるべく政治的なことや社会的なことなど、イタリアの特殊事情に踏み込まない範囲では、その原理・原則の部分など、考え方の基本線は同じではないかと思っています。

    ですから、個別の対応では幾らか違いが出てくるかもしれませんが、故意に反対の立場を取らない限り、大体同じ方向で一致できるのではないかと思っています。あるいは、人間尊厳以外の最高原理を持ちこまないのであれば、大体折り合っていけるのではないかと思っています。

    小門穂(お茶の水女子大学ジェンダー研究センター):補足と質問をさせていただきたいのですけれども。補足は、先ほどの私の発表でわかりにくい言い方をしてしまって申しわけなかったのですけれども、フランスでヒト胚研究を原則的に禁止をされていまして、今5年間、2006年から2011年の5年間に限って例外的に認められていまして、人のクローニングについては、刑事罰つきで禁止されています。

    質問なのですけれども、生殖補助医療法はすごく厳しいものだという印象がありまして、これに従うと、受ける女性の身体は結構負担が大きいようにも思えるのですけれども。というのは、例えば排卵誘発かけて出来た受精卵全部凍結しないとなると、全部移植するということですよね。そしたら、多胎妊娠が……。

    秋葉:2個までか、3個までか決まっています。

    小門:決まっているのですか。

    秋葉:最初から受精する予定以上の数は作っては駄目なのです。

    小門:作れない。わかりました。では、卵子がたくさん採れても、それは2つ3つ以外には受精もさせず。

    秋葉:させないです。

    小門:その卵子は廃棄するということですか。

    秋葉:そうです。

    小門:わかりました。

    秋葉:最初から受精させないです。

    小門:そこから作らないということなのですね。

    秋葉:はい。

    小門:ありがとうございます。あと、イタリアにアンティノリ氏という有名な人がいたなと思って60代の女性に子どもを産ませたりとかしていましたが、生殖補助医療法ができるとああいう極端なことはできなくなると思うのですけれども、アンティノリ氏とか、そういう感じの極端なことをしていたような人たちは、生殖補助医療法への反対運動をしなかったのかとか、今はどうしているのでしょうか。

    秋葉:アンティノリはセラ先生の生徒でした。イタリアに行ったときに先生は非常に怒っていました――カトリックの医学部ですので。結局、カトリックの医学部といってもやはりいろいろな人がいて、セラ先生によると、2割だけがいい医者であとはとんでもない、ということをいつも嘆いていらっしゃいます。しかし、アンティノリの事件については、彼はよくテレビに出て随分話したらしくて、セラ先生はそれを泣くほど怒っていらしたということです。

    生殖補助医療法ができる前から、イタリアは医師の職業倫理が厳しくて、職業倫理規程に違反すると免許取り上げになってしまいます。彼が今どうしているかはその後、聞いていませんが、少なくともこの法律の施行によって完全にできなくなっただろうと思います。

    先ほどご説明しなかったのですが、生殖補助医療法に対してはもちろん反対があって、2005年6月、スライドの32のところに書いてあるのですが、規制緩和を求める国民投票がありました。

    日本の新聞でも報じられたのですが、規定の投票率に到達しなかった理由の一因は、ベネディクト16世の働きかけがあったようです。ローマ教皇がイタリアの国の法律に口を出したわけですので、政治的な介入ではないか、随分話題になりましたが、これが、先ほどお話ししたベネディクト16世のスタンスです。教会の社会正義に対するスタンス、これは人権問題なのだということで、彼は果敢に――私もびっくりしたのですが――反対を呼びかけたのです。結局、投票率は26%でした。

    その後も、もちろん反対する産婦人科医、アンティノリのような人もイタリアには大勢いるのだそうです。そして、やはり先ほどのツアーです。ほかの国に行って受けることもあるし、産婦人科医も実は陰でやっていたりということもあるようですけれども、厚生省の報告書を見ると、一応これで動いています。

    荻野美穂(同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授):それに関連して質問していいですか。生殖補助医療法ができたのが2004年で、結構遅いですね。ですから、カトリック教会はずっと初めから反対していたとしても、法律になったのは遅いので、それまでにイタリア国内で、例えば代理出産で生まれた子どもや、あるいは国外に行って子どもを作ったとか、そういうのは結構あるのではないと思うのですけれども。それに対しては、先ほどから出ているような子どもの位置づけや、社会におけるメリットとか、それについてはどう思いますか。あるいは、教会はそういうことについてどのような発言していましたか。

    秋葉:クローンのときもそうだったのですが、生まれて来た子どもについては、とにかく人間ですから、きちんと法的な地位を与えて、尊重すべきであるということは、教皇が直接回勅の中で触れています。

    荻野:提供精子や卵子、あるいは提供胚(はい)などで生まれた子もいると思うのですけれども……。

    秋葉:生まれて来た、もう既に存在する人については、最大限尊重していくのは、当たり前だというのです。

    荻野:その子どもを依頼して作った両親の実子として、教会は認めているのですか。

    秋葉:どうなのでしょうか。そこの議論は見ていませんが、養子縁組を認めるべきだという学説は、以前目にしたことがあります。しかし実子というのは無理ではないでしょうか。

    ただ、法律が制定されたときの文書を読むと、やはり世界に2つの考え方があって、女性の権利を優先する国と、それから子どもの権利を優先する国としてドイツが挙げられていましたけれども、その両方がある中で、どちらを選べばいいか。これは、主に医者たちが中心になって議論したのですが、やはり「それをいい加減にしてはいけない。後発の国としては、両方をよく見比べて、どちらが本当にいいのか選ぶべきだ」ということが書いてあって、議会で多数決を取って、随分いくつもの法案が流れたようなのですけれども、とにかくしっかり選択がなされました。

    イタリアに行くといつも思うのですけれども、みんな教会にはあまり行かないのです。教会離れはイタリアでもひどい。ただ、人間のメンタリティ、弱い人に対する弱者保護の精神というのが、すごく行きわたっていて、その辺なのかなという感じがします。

    ちょうど高藤さんの事件が起きたときに、ローマに居たのですけれども、同じような事件がローマでも起こって、帰ってきた女の子に対して日本はすごくバッシングがありました。イタリアでは、「天使が帰ってきた」と言って、いろいろなところでお祭り騒ぎだったのです。確かに、自分の身を顧みないで危険な場所に赴くのはよくないけれど、でもそうまでして人を助けに行く精神をとても高く評価するのです。

    つまり、弱い人に対する保護の気持ちというのが非常に強い国民なのかと思います。ですから、随分早い時期から受精卵の問題は一般紙でも随分報じられていましたので、国民の中に割合それが行きわたっていたのではないでしょうか。弱い人を守るということに対して、みんなが支持した、という感じはしました。

    荻野:でも、アメリカの場合、卵子提供もそうかもしれないけれども、特に代理出産の場合、それがキリスト教のチャリティ精神から来ているという説明をよくされるのです。「単にお金が欲しいからだけではなく、悩んでいる、苦しんでいる人を助けてあげたい。私にできることをしてあげたい。だから代理出産をするのだ」と。ですから、それもやはり同じようにキリスト教を引き合いに出して正当化するわけです。でも、カトリックのほうでは、そういうようにはならないのですね。今、弱い人を助けるとおっしゃったのは。

    秋葉:その辺は、正しい助け方というのにこだわるのではないでしょうか。ですから、科学ですか。科学的な事実をきちんと踏まえてやらないとだめだという、その辺ではないかという感じがします。

    小椋:正しい助け方は、この場合どう助ければいいと考えるべきなのでしょうか。

    秋葉:究極的には不妊の根本的な治療、誰も傷つけない方法で、全員の人権を尊重した解決の仕方、そこに行くのだと思います。ですから、iPSを作った山中先生をすごく高く評価しています。イタリアでは、随分前からES細胞と同じものを、受精卵を犠牲にしないで作る方法を推進するための国際会議を開催していました。

    つまり、ただ反対しているだけではなくて、誰も傷つけない、誰も犠牲にしない、みんながハッピーな解決を目指す科学の1歩をちゃんと踏み出していくという、そういうことをやっています。もっと本当の、誰も犠牲にしない科学と倫理の発展を目指すのです。

    小椋:不妊の根本的な解決が可能かと言えば、100年200年では多分可能ではないだろうし、歴史哲学的に恐らく可能ではないと言わざるを得ません。要するに不妊は、人類が生きる限り、どんなに医学が進歩しても残ってしまう。そもそも代理出産にまで手を出さざるを得ないのは、どうしても子どもを欲しいからです。けれども、子どもを欲しいという気持ちをカトリックとしては自然なものとして想定するというのは、はっきりと言っていることですか。

    秋葉:科学には限界がある、という議論になるのです。ヒポクラテスも限界を認めていたから、例えば腎臓の結石術は医者がやらないとか、それから脳死になったら、もうポイント・オブ・ノーリターンで蘇生(そせい)できないから延命をやめるとか、科学には限界があります。患者を救いたいけれども、患者はいつか死ぬわけですし、限界があるから、その限界を見据えて、何ができるかを考えます。そこが、マテリアルだけではないところだと思います。グリーフケアや、いろいろなものがそこで出てくるのです。エンジェルケアや、「おくりびと」がありましたけれども、家族のグリーフケア、それも医療の領域に入ってきます。それは医学が科学だけではない、スピリチュアルな次元を含むことを示すものです。

    しかし、科学には限界があるので、どんなに子どもが欲しいと言っても、不妊を全部治せるわけではない。科学は科学で推進するけれども、いずれ科学がすべてを解決するかのように言うのは、逆にそれはインチキではないでしょうか。100年後、200年後に科学が発達したら、すべてが救えるということはないと思うのです。

    できることは、科学には限界があるということを見据えた上で、いつも最善を尽くす。その方法としては、もしかすると遺伝子治療についてはゲノムプロジェクトのあと、随分不妊の原因が特定できているようですので、それ以上フォローしていないのですけれども、多分科学者たちは、不妊の根本治療に向けた取り組みを進めているのだと思います。

    小椋:スピリチュアルなエンドという意味で頑張っている部分もある。しかし、科学研究という意味で頑張っている部分もあるということですね。

    秋葉:両方で頑張るのです。

    小椋:僕ばかり発言してすいません…。簡潔にうかがいますが、人格権とプライバシー権とは、どう違うのでしょうか。

    秋葉:米国憲法に固有の、憲法上最高の権利としてのプライバシー権は、イタリアにはありません。人格権という言葉を無雑作に使いましたけれども、私が先ほど使った人格権という言葉の使い方は不正確だと思います。イタリアの法律における「人格権」の正確な概念については調べておりませんが、言いたかったことは、生まれてくるクローン児は人格である、あるいは人権を有している、でもいいかもしれないです。

    生まれてくるクローン児は、いろいろな権利を持っているわけです。例えば、日本の憲法は生きる権利も認めているし、参政権も認めているわけですが、生まれたばかりの子どもについて参政権を議論しても無意味です。「クローン児が生まれてきたとき、その子に当然認められるべき人権は何か」と言ったほうが正確だったと思います。

    多分、出生後のクローン児には、身体の完全性の権利はもちろんあると思うのですけれども、ここで問題になるのは、もう少し別の議論だと思います。

    つまり、人は異性の両親から生まれてくる。それは自明のことと考えられていました。しかしクローン技術はこの自明の事実を変更しました。ここでの問題は、どう生まれるか、「生まれ方」に関する権利の議論なのです。まだ人権が発生する以前のことを議論しているのです。その人が発生するときに、どう発生するか。そこのところが、多分、クローンのときに議論された一番新しい問題なのだと思います。アメリカの報告書はこれについて何も書けなかった。そのことが象徴しているように、これは、すでに権利の主体である個人の権利の話ではなくて、人間がどう生まれるか、生まれ方の権利の問題だと思うのです。

    その意味で、全く新しいディメンションなのだろうと思います。私の今日の報告は、本当に申し訳なかったのですが、生殖補助医療の問題も、受精のときから人だということを認める立場だと、その後も受精卵の人権を根拠に全部カバーできる。しかし、どう生まれるかという権利までしっかりカバーするとなると、たとえば先ほどのヨナスではないけれども、「遺伝子操作されずに生まれてくる権利」というようなことになるのだと思います。

    そうすると、先ほど人格権という言い方をしましたけれども、単純に人権と言ってもいいのかもしれないです。それは既存のものではないと思います。今まであったものではなくて、人権の保護をめぐって今起こってきた新しい事態、親から普通に生まれてくるのではない、別の生まれ方をしてくるときに、どういう権利を認めてあげるべきかという、その議論ではないかと思います。

    小椋:今の話だと、例えば胎児の人格権を考えたときには、他人によってその存在が操作されていない、自分のオリジナルであるということを要求する権利が、人格権といえるかもしれません。もう少し育ってくれば、自分の部屋も欲しいだろうし、恋愛関係もあるだろう。そういうことを人に知られない権利がある。人格権に広い枠があるとすると、そのごく一部としてプライバシーの権利が位置づけられると考えてもいいですか。

    秋葉:そのプライバシー権ということについて、イタリアでどういう位置づけになっているか調べておりませんので、正確にお答えできません。プライバシー権は、アメリカでは本当に基本的な憲法の権利の一番中心にある権利だけれども、「ヨーロッパでは、プライバシー権は憲法上の権利ではない」とグレンドンは指摘しています。

    司会:荻野先生少しその辺りご存じではないですか。

    荻野:ヨーロッパのほうについては全然わからないです。

    司会:アメリカでの基本的なプライバシー権のほうの説明を。

    荻野:憲法にプライバシーの権利という言葉自体があるわけではないのですが、憲法の保障する基本的権利の一つとされています。1973年の連邦最高裁のロウ判決のときに、「女性が医師と相談して中絶を選ぶことは、その女性のプライバシーの権利に属する」という判決が出ました。つまり、もともとはプライバシーの権利というのは、ほかのコンテクストで出てきていたものを、そこで中絶と関連づけて使ったのでしょう。

    秋葉:今日は資料を持ってこなかったのですけれども、プライバシーの権利を形づくったのは、ユダヤ人で初めてアメリカの最高裁の判事になったブランダイスという人で、彼が、「人間の最高の権利は、とにかく一人でほっておいてもらう権利である」というようなことを述べた有名な箇所があって……。

    荻野:ロウ判決で中絶の選択をプライバシーの権利と言ったのは、ちょっと意味が違うのです。ロウ判決のときにはそれを拡大解釈して、自分の生き方、子どもを産むか・産まないか、それを最終的には自分で決めることができるという、そういう意味で使っているのです。ですから、一人にしておいてもらう、ほっといてもらう権利というのとは、ちょっと違うなと思うのです。

    秋葉:「ほっておいてもらう」というより、とにかく自分のことは自分でやっていくので、公権力が介在してはいけないのです。なんらかの不妊技術で子どもを作りたければ、個人的に医者と合意すればできる。国家がそれを禁じてはならないのです。

    荻野:そうですね。ただ、ロウ判決のときも女性が完全に自由に決められるかと言うと、「医者と相談の上で」となっていて、そこは結構医者の判断というのが大きいのです。完全に女性に決める権利があると言っているわけではない。妊娠第三半期になったら、もう女性がいくら中絶を望んでも、胎児に生存の可能性があれば中絶はいけないとか、実はロウ判決もいろいろ細かく条件が付いているのです。

    ただ、そのときに中絶を合法化するために一番持ってきやすかった憲法上の権利として、ある意味で適用しやすかったのが、多分プライバシーの権利なのだと思います。でも、ヨーロッパのほうに関しては、私もどうなっているかは知らないです。

    小椋:さっき人格権ということに関して、「通常の男女から生まれる権利もそこに含まれる」というようなことをおっしゃったと思います。それは人格という概念の、どういうところに含まれるのですか。

    秋葉:先ほどからお話を伺っていて、ある意味で一番きちんとしなくてはいけないのが、人格とは何かという、人格論のところだと思います。「人間の尊厳」というような言葉を私は使っているのですけれども、正確には「人格の尊厳」です。

    そして、人格とは何かということを議論し始めると、多分、今日一般的に用いられているカントの定義、道具にしてはいけないという理論だけではうまくいかなくなってきていると思うのです。

    それは今の問題に、その言葉だけでは対処できないような、少し別の状況が生じていて、これまでの定義ではかえって誤解を招くということだと思います。「人格権」という言葉自体も一様ではないと思います。生命倫理の領域では、これまで民法で用いられてきたのとは異なった状況で、この言葉が用いられています。

    ですから、日本の民法で使われる「人格権」と、生命倫理において使う「人格権」とは、少し違う使い方がされていると思います。ただ、私が先ほど使った意味は、イタリアで言われているような、「人として当然認められるべき権利」、すなわち「人格」の権利のことです。誰でもみんな異性の両親から生まれてきているではないか、一体誰が科学技術の産物として生まれてきたいか、そういう問いかけがされています。

    それはまだ権利として確定しているわけではありませんが、それもまた、人格権として認めていこう、ということです。医師の職業倫理の文献を見ると、「科学の進歩と倫理の進歩」という言い方がよく出てきます。今、科学技術がすごい勢いで進んでいて、技術の力でいろいろなことができます。脳死移植もそうです。ただ、そのときに倫理の進歩が追いついていっていない。だから、いつもそれを改訂して、今の問題に対処できる形にしなければならない、応用問題を解いていかなくてはならない。

    多分、クローンで人間を作れるとは誰も思っていなかったし、今、日本では、iPS細胞から生殖細胞を作って、そこから人間を作ってもよいかが真剣に議論されていますが、これも、従来の「子どもの生きる権利」だけでは対処できません。

    ですから、「生まれ方の権利」というところに目をとめて、発展させていく。イタリアでは医師会が中心になって、ヒポクラテスの倫理を現代化する作業が継続されてきました。現在、そこに生命倫理学者が加わり、さらにその重要部分を法律化するという動きが見られます。

    つまり、まず科学があって、次に倫理の議論をして、最後にその最低限を法律化するという作業がイタリアでは行われています。

    司会:ちょっと私から質問です。IVFについて、顕微授精についてはどういう見識なのでしょう。それを思ったのが、先ほどの説明の中で、背骨ができる場所が決められるというのはあったのですけれども、あのような説明のところで、偶然生まれるような、そういったものも尊厳に含まれるというような説明だったかと思うのです。IVFだと、精子も医師が勝手に決めてしまうわけですね。そういったところで偶然性が……。

    小門:ほかのICSI。IVFは体外受精になっていくし。

    司会:ごめんなさい。顕微授精です。顕微授精の場合、精子も決められてしまうわけで、そういった面で何か議論というのは言われているのでしょうか。

    秋葉:多分、文献を見れば――生物学的な、医学的なアセスメントはものすごくしっかりしていますので――出てくると思います。まず受精のメカニズムからいくと、それこそ何億かの精子の中から1個が選ばれるわけです。卵子がその1個の精子を受け入れるまでの科学的なメカニズムが精密に説明されていて、たとえば精子はどういうふうにして卵子の透明帯を通るのか、透明帯はどの精子を通すのか、1個通すと、あとの精子を受け付けないように化学的に変化して、今度は透明帯でほかの精子を全部殺すのです。なぜそのようなメカニズムになっているのかは、まだ解明されていないのです。それは、おそらく、卵子が精子を選んでいるのです。それなのに、卵子の選択を無視して、透明帯を除去して、無理やり卵子に1個の精子を入れるわけです。フランスの生命倫理を早くから日本に紹介されてきた橳島さんに聞いたのですが、「卵の強姦」という記事があって……。

    小門:ルモンド紙に「卵子へのレイプである」という記事が出ました。

    秋葉:多分、そういうような議論を、それは単なる比喩(ひゆ)ではなくて、受精のメカニズムに関する、どのような遺伝子がいつどこで働いて、というような文献がたくさんあるのです。

    顕微授精については、先ほど触れた、体軸の決定に関する、サイエンス誌の記事、「第1日目からのあなたの運命」というタイトルの記事が、重大な疑問を提起しています。精子が入った場所によって、将来、受精卵のどの部分が、どの組織、どの器官になるかが決まります。人為的に針を刺して精子を挿入しても大丈夫なのか。

    また、着床前診断は、細胞分裂のかなり早い時期に、細胞の一部を取り出したりする。これはとても怖いことをやっているのではないか。取り出す細胞によって、将来、ある一定の器官の弱い子ができるかもしれない。顕微授精に対する反対は、単なる不安や恣意的なものではなくて、そのような科学的根拠に基づいて、生物学的メカニズムを解明した上で、具体的に提起されているのです。

    別の言い方をすると、卵子には自律権があるのです。自分で精子を選び、どの場所から侵入するかを許し、その後どういうふうに着床を許すか――それは、子宮と受精卵のクロストークによって決まるのだそうですが――そういうようにして極めて精密なメカニズムによって営まれているのに、そこに人為的に介入するわけです。それに対して批判するのです。

    司会:私が今の質問で思ったのは、それをされてできる子どもがいて、その子にとっては技術によって自分の尊厳みたいなものが侵害されてしまう。卵にとってはレイプだけれども、その受精卵になったら、ゆくゆくは人になるわけで、そういった受精卵が大きくなって人になって。ですから、人が何か侵害されるみたいな議論というのはないのですか。

    秋葉:そうではないと思います。奴隷と同じで、奴隷制が昔あったわけです。奴隷制が今なくなって、では、昔奴隷であった人はどうなのか、ちゃんと人間です。それと同じではないでしょうか。

    人間は人間ですので、生まれてきた人にはちゃんとスピリットが宿るわけです。ですから、その時点で尊い。その時点で人権侵害を受けると言っていいと思います。生まれる時点ですでに身体に損傷を受けるわけです。もちろん、だからと言って、その人の精神的な尊さについては、全く変わりはないので、尊重して受け入れましょうという、そういう話になります。

    司会:わかりました。ありがとうございました。ほかに何かご質問のある方いらっしゃいますか。もし、ないようでしたら時間になりましたので、ここで終わりにしたいと思います。

    長時間お付き合いくださいまして、ありがとうございました。発表のお二方に拍手をお願いいたします。(拍手)